3月にフィリピンのレイテ島を訪ねる機会が与えられました。昨年11月にフィリピンを襲った台風の被災地を視察するためです。
かつて私は留学生としてフィリピンに7年間滞在し、その間、フィリピンの各地を訪ね歩きましたが、レイテ島だけは行ったことがありませんでした。よって、今回生まれて初めてレイテの土を踏んだ時には、自分の気持ちが高まってくるのを感じました。
この島を訪問するに際して私が持ち込んだ一冊の本があります。それは大岡昇平さんの書いた『レイテ戦記』。太平洋戦争の天王山といわれるレイテ戦の詳細な記録です。
私はこの本を読みながらレイテ島各地を歩き回りました。そして自分が立っている地で、また眺めている風景の中でどのような具体的な戦いが繰り広げられ、どれくらいの兵士たちがそこで亡くなられたのかを確認しながら歩きました。そしてその地が、凄惨を極めた悲劇の戦場だったことに改めて気付かされました。
本土決戦の危機を回避する時間稼ぎのために、大量の日本人兵士たちがこのレイテ島に投入されました。その多くは軍人としての訓練を十分に受けていない民間の兵士たちです。その結果、約8万人の日本兵がこの島で戦死しました。しかも1万人以上の兵士たちはレイテ島に取り残されて餓死したといわれています。
さらにレイテ島は体当たりの特攻隊が誕生した島でもあります。多くの特攻隊員たちが米軍戦艦への体当たりを試み、尊い命をレイテの海に沈めていきました。
レイテ戦はアメリカ兵にとっても悲惨だったようです。大岡氏は、アメリカにとってのレイテ戦がマッカーサー元帥の軍人としてのメンツを保つために、また、アメリカの国家的利益を確保するためにいたずらに引き延ばされた戦争であった事実を指摘しています。
さらに一番の被害者はレイテ島に住むフィリピン人だったことは言うまでもありません。多くの民間人たちが日米間の戦争の巻き添えになりました。戦争がいかに人間の心を残忍にし、その後、消すことのできない禍根をその地に残すのかを思い知らされました。
レイテ島は台風の甚大な被害と、慢性的な貧困と、戦争の傷跡に今も苦しみ続ける悲しみの島でした。その事実が私たちにはほとんど知らされていないのではないでしょうか。
この島との出会いに私は感謝しています。そして、この島との出会いをこれからも大切にしなければと今、思わされています。
(『みずさわ便り』第110号・2014年6月15日より転載)
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若井和生(わかい・かずお)
1968年、山形県生まれ。1992年より国立フィリピン大学アジアセンターに留学し、日比関係の歴史について調査する。現在、岩手県の水沢聖書バプテスト教会牧師。「3・11いわて教会ネットワーク」の一員として、被災地支援の働きを継続中。妻、8歳の息子と3人家族。