福音の光②
ちょうどこの頃、私もつらい見習いコックとしての修業をしていて、いつ辞めようかと思い悩み、夢も希望もない毎日を送っている時でした。私は姉や弟と一緒に両親に連れられて毎週教会に通いました。その教会は中国語だったので、百パーセント中国語が分かるというわけでなかった私は、福音について完全に理解することはできませんでした。しかし私も母と同じく、言葉で表現できないが何か心に平安がもたらされ、将来に希望が持てるような気がしてきました。金持ちも貧乏人も、高い地位に就いている権力者も卑しいもの乞い生活をする者も、人間はすべて神の前に等しく罪人であるということ。しかしその罪人である私たちを神はこよなく愛してくださり、そのひとり子のイエス・キリストは十字架で私たちの罪を清算してくださったということ――この福音は14歳の少年にも理解できたのでした。
こうして教会に通い始めてから、たとえ語られるメッセージが十分理解できなくても、何か私の心の中に少しずつ変化が訪れ、変えられていったように思います。私はそれまで人を見ると心を閉ざし、警戒し、相手の言葉を素直に受け取れなかったのが、人間はどんな性格を持っていようと、また好きな人、嫌いな人があっても、皆兄弟なのだということが分かってからは、相手の言葉を素直に受け入れることができるようになったのです。
そして、これは後になってから分かったのですが、私はそれまで人から何かやってもらうことが能力もしくは権力のある人間の特権であり、人に使われることは、能力や力のない人間の運命だと思っていました。だから、人から顎で使われたり、ああやれ、こうやれと命令されたりすることが屈辱的に感じられていたのです。しかし、教会に通うようになって、人に仕えるということの意味がおぼろげながら分かってきたように思えました。これは灰色の生活の中で何の感動も喜びもなく、盲目的に運命に従って歩いていた14歳の少年に対して天から授けられた極上のプレゼントでした。
こうして福音の光が、暗く閉ざされたわが家をめぐり照らし、私たち家族一人一人をやがて救いに導くために働き始めたのでした。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。