こうして私たちは、末の弟を中国に残したまま日本に渡り、生活することになりました。父は中国で地位もあり、財産もあったので、日本に来てもかなり裕福な生活をしていました。3階建ての大きな家に住み、使用人がいて何でもしてくれます。そして、よくパーティーが開かれ、たくさんの人を招いてにぎやかに食べたり飲んだりしました。そして長男だった私は「坊ちゃま」扱いをされ、かしずかれました。今覚えていることは、家政婦が私に「今日は何を召し上がりますか?」と聞くので、「そうだなあ、○○が食べたいな」と答えると、その日の朝か晩の食事のとき、必ずそれが出てくることでした。長男の特権はとても大きいもので、私の好みによってその日の食事まで決まるほどのものだったのです。
ところが、こうした豊かな生活も長くは続きませんでした。とんでもない悲劇が、本当に予想もつかない形で私たち家族の上に落ちかかったのです。父はかなりの財産を持っていたために、日本に来てからも働く必要がなく、豊かな生活を家族全員で謳歌していました。しかし、元々人が良い父は、ある友人の連帯保証人となったところ、しばらくしてこの友人の会社が倒産してしまい、その友人が抱える借金をすべて父が背負うことになってしまったのです。まさに、天国から地獄にまっさかさまに墜落するがごとく、私たちの生活は一変しました。3階建ての家を離れ、小さな家に移り住み、使用人はすべて解雇し、両親は少しでもお金になるならばと、持ちものを売り払い、借金を返済していくために自分たちは働くしかすべがなかったのでした。
背負った借金は、それこそ個人が一代かかっても返し切れるものではないほど莫大なものでした。それは、両親が毎日コツコツ働いて少しずつ返済するようになっても、いつになったら完済できるか予想もつかないものでした。そのような中で、個人からも借金をし、また金融業者からも借金を返済するための借金をしていたようでした。
それから間もなく、金を借りた個人や業者が借金の返済を迫り、家に取り立てに来るようになりました。彼らはひっきりなしにやってきては嚇しの言葉を吐いていきます。父も母もわずかな仕事をして日銭を稼いでいたので、私たち子どもだけで留守をする日が多くありました。これらの「取り立て屋」が来ると、私たちは家の内側からカギをかけ、息を潜めて嵐が過ぎるのを待ちました。このとき、私はまだ5歳になったばかり、姉は小学校に通い始めたところでした。
両親が稼いだ日銭は、ほとんど借金の返済のために消えてしまい、私たち家族は毎日の食事にもこと欠くという有様でした。食うや食わずの当てのない日々――覚えているのは、そんな悲しみと苦しみが交差している灰色の毎日でした。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。