ある日、横浜にある重慶飯店というレストランから、そこの料理長が虫垂炎(俗に言う盲腸)で入院してしまったという連絡が入りました。そして、料理長がよくなるまでしばらくの間コックを貸してほしいと言ってきたのです。その時、陳建民先生は私に、「あなたは横浜に仕事に行きなさい。そして、そこでしっかり店のために働いてほしい」と言いました。
こうして私は横浜の重慶飯店に「料理長代理」という形で行くことになったのです。そこにいた4人のコックはいずれも私より年上でしたが、経験においては私のほうが長かったので自然に指導的立場をとることになりました。彼らは私に一目置き、色々と聞いてきたので、私は自分に分かることは教え、協力し合って店を守りました。毎日やり甲斐があって楽しく、3カ月はあっという間に過ぎました。1、2カ月の間だろうと思っていたのですが、その料理長は退院後中国に帰ってしまい、店に戻ることはなかったのです。そこで私は元の店に戻ろうとしたのですが、「もうしばらくいてください」と引き止められ、もうしばらく、もうしばらく・・・といううちに、やがて乞われるままに、私はその店の料理長として勤めることになったのでした。
中華街には当時、百何十軒という中華レストランがあったのですが、その中で定期的に「料理長の集まり」というものがありました。当時の料理長といえば、若くて40歳。多くは50代、60代という年輩の人たちで、そのような中に、私は17歳で参加することになりました。彼らは皆、私を見ても料理長と思っていなかったので、「あっ、ここは違うんだよ」「今日は料理長の集まりなんだよ」と注意します。
仕方がないので、私は言いました。「あの・・・とりあえず、私は重慶飯店の料理長なんですけど」。すると、皆びっくりしたり、感心したりで、多くのコックが私にアドバイスをくれました。その中でも、「酒に呑まれてはだめだよ」「博打(ばくち)に走ってはだめだよ」「料理の道は、死ぬまで修業だからね」というアドバイスは、父親が私にくれたものに近かったのです。
父親は、この時すでに信仰を持っていましたから、御言葉をもって諭してくれました。
「若いうちはお金など貯める必要はない」
「若いうちのお金は身につかない」
中国でビジネスをし、大きな財産を持っていた父は、お金に対して苦労があったのでしょう。この時、私の給料は何と5万円でした。当時の5万円といえば大変なお金です。毎月うまくやりくりすれば、ずいぶん多くの貯金ができたのでしょうが、あいにく自分はお金に対してあまり計算が得意ではありませんでした。
お金のある所には、またよくない友達も集まってくるものです。私の所には毎日のようにお金を借りに来る人がいて、私の財布は現金ではなく借用書で一杯でした。
「若いうちのお金は身につかない」。父親の言葉どおりでした。私は貯金が全くできず、父親の借金を返すための一部のお金以外はすべて借用書になって消えていきました。
さて、この中華街においては、よく勉強会を行っていました。周囲の店のコックたちと料理について勉強するという機会がたくさん与えられていたのです。
「料理においては味が決め手といいますが、味づくりの秘訣というようなものがあるのでしょうか?」
ある勉強会で、私は自分よりも経験の浅いコックにこう尋ねられたことがありました。そこで私は、今までのことを振り返り、自分が苦労して少しでもよい味が出せるように密かに研究してきたことを話して聞かせました。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。