少しずつコックの修業生活に慣れてくるにつれて、つらいことより面白く楽しいことのほうが多くなってきました。先輩コックの中にはもちろん意地の悪い人や乱暴な口のきき方をする人もいましたが、それ以上に親切な人も多くいることに気付いたことは大きな進歩でした。私は、何をすればその人にいちばん喜ばれるのかということを考えて、包丁を研いだり、買いものに行ったり、掃除をしたり――と、喜んでお世話することができるようになりました。そうしていると、不思議にそれが相手に通じるらしく、彼らと心が通い合い、彼らは喜んで仕事のコツをていねいに教えてくれるのでした。
そんな時に、私より一歳年上の新人コックが入ってきました。前に述べた私より半月前に店に来た人です。彼も家庭の事情で学校に行くことができなくなり、料理の道に入ってきたのでした。これは私にとって非常に大きな益となりました。というのは、私たちは良きライバルとなり、互いに切磋琢磨(せっさたくま)しながら料理の勉強をすることができたからです。そして料理に対する興味が湧き出てくるのを覚え、また色々と努力する力が与えられたのでした。そして、私は少しずつ向上していきました。
この四川飯店で3年間修業し、16歳になった時のことでした。四川飯店のある田村町のすぐ近く、芝に留園(りゅうえん)という大きな店ができたのです。何でも200人のホールスタッフを採用するのに2千人の応募があったとか。これは当時としてはとても大きなニュースになったのです。4、5階建てのビルの中に、中華料理では、「四川料理」「広東料理」「上海料理」「北京料理」といった中国四大料理を集めた殿堂のようなものでした。陳建民先生がそこのプロデュースを担当することになり、中国からコックを連れてきて店のアレンジメントをし、そしてこの責任者として招聘されたのです。それで陳建民先生は、四川飯店の切りもりをしながら、その店の面倒をみるということになりました。
その時、先生は私と、ライバルでひとつ歳上のコックをその店に派遣しました。「修業のほうはそろそろいいようだから、そこの店に行って腕を発揮しなさい」。そう言って送り出したのでした。
中国から来たコックたちは全然日本語ができません。そこで私は当時少し中国語ができることから、これらのコックたちの面倒を見、必要に応じて通訳をすることを委ねられたのです。彼らを連れてスーパーに行き、日用品や衣類を買う手助けをし、また彼らを連れて病院へ行くこともよくありました。
そんなある日のこと。四川省から来たコックが歯の痛みを訴えたので、彼を連れて歯医者に行きました。
「痛かったら、痛いと言ってください」。医者がそう言いました。しかし、そのコックは日本語が分からなかったので、私が通訳して、「痛かったら、痛いと言ってください」と言って治療が始まりました。
彼は凄く痛かったのか、顔をしかめました。「どうですか? 痛いですか?」「痛い!」。そこで、私はまた通訳して、医者に言いました。「先生、本人は痛がっています」
このような通訳を通して、私は中国から来たコックたちと関わり、交わり、親しくなりました。そしてそれまで苦労して修業したお陰で身に付けた技術も生かされ、やっと仕事が面白いと感じるようになりました。
見習いの時は月3千円だった給料が、この店に派遣された時には2万4千円から5千円という高額にアップしたのでした。当時の一般企業の基準から考えると、16歳の私が2万円以上の給料をもらうことは異例のことでした。コックの道は技術があって努力さえすれば、とても大きな収入を望めるものだということをその時思わされたのでした。
そのうち、2軒目の四川飯店ができると、私は陳建民先生のすぐ下の料理人として、先生と一緒に行くことになりました。そこで一年、私は先生と共に仕事をし、その間に色々な勉強もできて、コックとしての腕も上がってきました。コックの道というのは、どの師匠に付いて、どのくらいの技量を持っているか――ということが問われるのですが、私はこの陳建民先生のような偉大な師に付いて基礎から応用まで教わり、素晴らしい料理の技術を身に付けることができるようになったことは、何と幸いなことでしょうか。そして私は、その翌年、さらに驚くべき躍進の機会が訪れることを、この時はまだ予測していませんでした。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。