料理修業の道へ①
思えば、私は14歳にして料理修業という今まで望んだことも、想像したこともないような道に入ることになったのでした。見習いだから、給料はそれほどもらえたわけではありません。初め、1カ月の給料は3千円でした。これを日給にすると、100円ということになります。その当時ラーメンが1杯35円で映画が50円でしたから、日給100円は良いほうだったかもしれません。
修業の初めは、鍋洗い、皿洗いの仕事からでした。換気が悪く、熱気が立ち込める厨房の中で何時間も立ちっぱなしで鍋を磨き、皿を洗っているうちに疲れて目まいがしてきました。しかも、四川料理は香辛料を多く使うために、強烈な香りが鼻についてしまい、そのうちに胸がむかむかしてきました。思えば子どものころは、王子さまのように使用人にしてほしいことを言うだけでそれが叶い、食べたい料理を言えば必ずそれを口にすることができたものですが、それが今は、人が口にする料理のために汗を流して労働する身となったのです。
修業は厳しいものでした。皿がきれいに洗えていない、鍋の磨き残しがある――と先輩コックたちに怒鳴られます。「やり方が雑だよ。もっと丁寧にやりなさい」。そう言われて、丁寧に磨くようにすると、別の者が叱りつけます。「たくさんのお客さんに料理を出さなくちゃいけないんだよ。そんなにもたもたしていたら仕事にならないよ。もっと手早くできないのかい?」。そのたびに、「すみません」「気を付けます」と頭を下げるしかありません。
また、色々な道具をあちこちに運ぶという仕事も、見習いコックに課せられていました。材料や道具の中には重いものがあります。それを1日に何度となく持ち上げたり、下ろしたりする作業を繰り返すため、その時は気付かなかったのですが、腰を痛める原因となりました。それから、特に注意して、言いつけられた道具を先輩コックの所に持っていかなくてはなりません。この時、うっかり間違えたりすると、大声で叱責されます。
「こんな子どもでもできるような遣いが、どうしておまえにできないんだよ!」。私の一つ上の先輩コックは、お玉で頭を叩かれたこともあったようですが、幸い私は叩かれませんでした。
また、別のコックは用を足すのが遅いと言って怒鳴ります。「もたもたするんじゃない! 言いつけられたことはパッパッと手早くやるんだよ」。「見習いは見て盗むものだよ」ということをよく言われていたのでそうしようとするのですが、先輩コックの中には意地の悪い人もいて、わざと面白がって雑用を言いつけます。「タバコ買ってきて」「ちょっと、これを小銭にくずしてきて」などなど。
私は言いつけられた通りに「はい」と言って買い物をしたり、用を足したりして戻ってくるのですが、出かけている間に見たい料理の仕込みは終わっていて、肝心な所を見せてもらえませんでした。
そんなとき、私が用事を済ませて戻ってくると、もの陰で2人の先輩コックがひそひそ話をしている声が聞こえました。「あんなにもの覚えが悪い見習いも珍しいよ。誰の紹介で入れたんだ?」「父親がこの店の支配人だからさ。陳建民先生に頼んで入れてもらったんだろう」「ものになるかな?」「さあねえ。もうしばらくしてみないと分からないが、教えるほうも疲れるよな」。私は悲しくて、情けなくて、トイレに隠れて泣きました。
「おい、どうした?」。そのとき、ポンと肩に手が置かれたので振り返ると、陳建民先生が立っていました。その目には優しく温かな光がありました。私はあわてて涙を拭き、頭を下げました。
「料理の修業というものはそんなに甘いものじゃないことは分かっていると思うけどな、でもその辛さが今に肥やしとなって返ってくる。それに修業中はすべてが勉強なのだから、叱られることはちっとも恥じゃないんだよ。すべてが修業のうちと思えばいい」。陳建民先生の言葉は、温かい雨のように心に滲み込みました。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。