ところで、キリスト教と出会った私のその後の信仰生活はどうだったでしょう。14歳でコックの修業に入った頃、両親の勧めに従い、姉や弟と共にお茶の水にある華人の教会に通うようになったことはすでに述べました。日曜日は店が忙しかったのですが、陳建民先生の特別な取り計らいで教会に行き、礼拝が済むとまた店に戻って仕事をするということが続いたのですが、それはただ習慣的にそうしただけで、自覚をもって信仰の道を歩むということではありませんでした。しかしながらあるとき、そんな私を覚醒させるきっかけが訪れました。
毎年夏になると、軽井沢の「恵みシャレー」というキリスト教施設で修養会が開かれるのですが、この年私も勧められるままに出席しました。当時はまだ、この「恵みシャレー」で食事を出すことはしていなかったので、ちょうどクリスチャンでもある私の師匠陳建民先生も厨房に入り料理をし、私も手伝わせていただき一緒に料理を作り、一緒に食べるということをしました。この修養会で多くのクリスチャンの若者と知り合いになり、交わりの時を持ち、語り合ったことは、私にとっても有意義な体験でした。そして一緒に話を聞き、聖書を学び、わずかな期間ですが共に生活する中で、私の中に小さな変化が生まれたように思います。それは、初めて自分の意思で信仰というものを見つめ、求道しようという決意が生まれたのです。振り返ってみると、当時はまだ聖書が十分に分かるわけではなく、また通っていた教会が中国語だったということもあり、私はまだ福音というものが十分に理解できていませんでした。父はそんな私を、温泉に連れて行ったり、また聖書をひもといて読むなどして、御言葉を教えてくれました。このような中で、私ははっきりとした自覚がないままに、両親を安心させるために、習慣的に教会に通っていたのです。
17歳で料理長になり、横浜の重慶飯店に派遣されたとき、横浜にも華人の教会があったので、日曜日には教会に行き、礼拝が終わるとまた店に戻るという生活を続けていました。そのような間にも、何度か軽井沢の「恵みシャレー」の修養会には参加していました。そして、20歳を迎えた年の夏、この修養会で私は心砕かれ、イエス・キリストの十字架にすがる以外に救いの道はないと確信し、洗礼を受けたのです。
ちょうどこの頃は、私も成功への道を登り始めたときで、社会に向けて目が開かれ、地位もあり、仕事も安定し、お金もありました。ビジネスのチャンスにも恵まれ、企業家との人脈も広がってきたこのようなときに、当然のことながら、私は教会よりも世俗の生活のほうに魅力を感じていました。
辛い修業を終えてコックとして独り立ちをし、その腕を認められ、料理長となって重慶飯店という大きな店を任せられたのです。店の管理から賄いの責任、新人コックの面倒をみることから、新作料理への挑戦。さらに中華街における料理長たちとの交流や勉強会。新しい出会いから限りなく広がってゆく事業への展望。何もかもが面白く、新鮮でした。しかも、給料は当時としては一般のサラリーマンがもらう給料とは比較できないほど高額で、働けば働くほど、面白いように懐にお金が入ってきます。
こんな中にあって、私は自分の仕事に対する誇りや、仕事仲間との付き合い、そしてビジネスチャンスというものに心奪われ、いつのまにか自分が救われて洗礼を受けたことを忘れ、教会で恵みに預かったあの感動も忘れ、習慣的に礼拝に足を運ぶことはあっても、教会生活はおろそかになってゆきました。私にはまだ、心の底から悔いくずおれ、救いを求めるという土壌が心の中にできていなかったのでした。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。