福音の光①
私が辛い修業の真最中、鍋、釜磨きや皿洗いに奮闘していた頃、両親はある事情からキリスト教を信じるようになり教会に通い始めていました。そしてある日曜日に、私と姉と弟も両親に連れられて初めて教会に行くことになりました。それはお茶の水にある華僑の人のための教会でした。
日曜日といえば店が忙しいのですが、四川飯店の支配人である父は同じようにクリスチャンである陳建民先生から特別に許可をもらっていたようでした。両親は1年前に洗礼を受けていました。私は家族と共に教会に行き、礼拝が終わるとまた店に戻る―ということを長い間続けることになりました。
ここで少し話が戻りますが、両親がどのようにしてキリスト教の信仰を持つようになったかについてお話ししたいと思います。私の母は、一番末の弟を中国に置いたまま日本に連れてくることができなかったということが長年の心の重荷となっていたようです。日本に来た時はとても生活が豊かで、ゆとりがあったので毎晩のように家でパーティーをし、コックにおいしいものを作ってもらい、友人や知人を招いて楽しいひと時を過ごしたのですが、そのような時も、母は下の弟を中国に残してきたという心残りと悲しみのために、そのパーティーを心から楽しむということができなかったようです。
父はそんな母を見ていて、可哀相でならず、何とかしてやりたいと思っていましたが、彼女の心の傷は深く、どうしても癒やすことができませんでした。父は家に何かを祭ったりはしませんが元々仏教徒でした。それで、知り合いのお寺のお坊さんに頼んで祈祷をしてもらったりしたものですが、そのようなことで母は心に平安を得ることができず、ますます心の悲しみと憂いは深くなっていくようでした。
うつ病になりかけていた母をとても愛していた父は、困り果てて、クリスチャンの友人に相談しました。「実は家内がね、一番下の息子を中国に置いたまま日本に来たことで自責の念にかられ、ずっと苦しんでいるんだよ。何とかしてやりたいと思うんだが、私もこの通り宗教にはあまり熱心な人間じゃないもんで、どうしていいか分からない」
その時、その友人が言いました。「私の行っている教会の牧師先生はとても心の広い人で、どんな人の悩みにも心を留めて一緒に祈ってくれるんだ。それで救われた人が何人もいるよ」。そして、彼は牧師に相談してみると言って帰っていきました。
それからしばらくすると、その教会の牧師が訪ねてきました。それは、中国での宣教経験のある米国人の牧師でした。彼は何かを押しつけたり、説教したりするようなことはなく、私の両親と話し合ってから、二人が負っている心の痛みと苦しみを察し、とても優しい口調で祈ってくれました。そして、帰る時にこう言ったのです。
「『親がなくても子は育つ。でも神の愛がなければ人は生きられない』―こういう言葉があります。どんなにひどい世界でも、神の愛はくまなく降り注がれています。だから、きっとあなたがたの子どもさんは守られ、神の御手の中で安全に成長していますよ。これだけご両親が心配し、祈られているのですから、損なわれるはずがありません」
不思議なことに、それから希望の光が見えてきたように母の顔が明るくなり、めったに見られなかった微笑が口元に浮かぶようになったのです。
「何だかあの先生に祈っていただいてから、背負っていた重い荷物が軽くなったような気がします」。彼女は父に言いました。そして、何と驚くようなことを口にしたのです。「私、何だかあの先生の教会に行ってお話が聴いてみたくなったわ」。父が驚いたことといったらありません。
こうして、両親は教会に通うようになり、その1年後に洗礼を受けたのです。思えば、両親は中国で福音を聞くということがありませんでした。日本に来て、豊かな生活が一変し、借金だらけの生活、仕事だらけの生活の中で、彼らはイエス・キリストに出会ったのでした。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。