日本と世界の公害・環境問題の歴史をたどり、現状を本に書く仕事を始めてから35年になる。ひたすら書き続け、気が付いたら、齢は80歳。書いた33冊を積み重ねて見たら、100センチメートルを超えていた。今秋までに後2冊刊行して仕事を終える。書きたいテーマの本を全て書き終えることができたのは、ひとえにイエス様の恵みによるものと感謝している。
鉱毒被害の惨状
環境問題の歴史の調査研究を通じて得られた事実のうち、心に残ったキリスト教関係のことを2点だけ紹介させていただきたい。それは日本の公害の原点であり、明治時代最大の社会問題でもあった足尾鉱毒事件の反対運動に思想家・キリスト者の内村鑑三(1861~1930)が関わったこと、および鉱毒反対運動のリーダー、田中正造(1841~1913)が晩年、聖書を徹底して読み、実践に努める敬虔なキリスト者になったことである。
そもそも足尾鉱毒事件は、足尾銅山から排出される鉱滓(こうさい)・鉱毒が渡良瀬川に流入、川底を浅くしたために洪水が頻繁に発生し、水田を汚染したことで起こったものである。鉱毒汚染農地は栃木県南部、群馬県南東部を中心に1都4県の広大な地域に広がり、多くの農家が生活の糧を奪われて貧窮にあえいだ。その上、汚染農作物は健康被害を引き起こし、死者は1895~1900年の5年間だけでも1064人(前橋地裁における証言記録)といわれ、妊婦の流産や死体分娩の件数も相当に多かった。
1897年3月、被害農民たちは農商務省に対策を陳情するため、徒歩で上京した。代表56人が農商務大臣の榎本武揚に会い、鉱毒被害防止を泣いて訴えたが、対策は何一つ取られなかった。上京・陳情は何度も計画されたが、いずれも警官によって阻まれるなどして果たせなかった。
1901年12月10日、思い詰めた田中正造は衆議院議員を辞し、直訴状を掲げて明治天皇の馬車に駆け寄って逮捕された。死を覚悟しての田中の直訴は全国の新聞に好意的に取り上げられ、鉱毒被害農民への同情的な世論が形成された。
内村鑑三らが学生視察団を送る
1902年、田中の直訴を機に世論が鉱毒被害農民への同情で沸き立つなか、思想家で、キリスト者でもある内村鑑三は社会運動家の安部磯雄や社会運動家で牧師の田村直臣(なおおみ)らに呼び掛け、学生の鉱毒視察団を企画した。鉱毒地学生視察団には国立、私立の大学や高校、宗教学校の学生約800人が参加し、上野駅から汽車で現地入りして被害の激甚地を見て回った。若いキリスト教徒や仏教徒たちの中には、医師、看護婦らと一緒に施療活動を行う者もいた。日本の公害史の中で、内村のようにキリスト者が大きな社会運動の先頭に立ったケースは稀である。
内村は足尾鉱毒事件にどのようなスタンスで対処したのだろうか。内村は札幌農学校時代から植物が他の植物と互いに絡み合い、関係し合って生きているとする「エコロジー」理論に共鳴、自然は守らなければならないものと考えていた。銅山経営者の私利私欲のために広大な田畑が鉱毒に汚染され、農民を塗炭(とたん)の苦しみに追いやっていることは、許し難いことだったに違いない。鉱毒事件が起こると、内村は日刊紙「万朝報(よろずちょうほう)」の記者として被害農家を訪れ、鉱毒の惨状を取材した。内村は連載記事の中に「足尾鉱毒事件こそ最も悲惨かつ耐え難い災害である。農民の額に『絶望』の二字が印せられているのを見た」と、被害者サイドに立った記事を書いている。内村は今の時代にも通用する思想家だったといえよう。
ひたすら聖書を読んだ田中正造
1903年、桂太郎内閣は鉱毒汚染の著しい栃木県の谷中村を廃村にし、住民を移転させて遊水池化する計画を決めた。この時、63歳の田中は有利な状況が切り開けるという保証が全くないまま、家屋の破壊される谷中村に入った。田中を中心にして長い間、鉱毒反対運動を担った多くの活動家たちは誰一人田中と行動を共にしなかった。
田中にキリスト教の影響を与えたのは新井奥邃(おうすい)である。最初、田中は聖書の分冊、マタイ伝一冊を憲法ととじ合わせて持っていたが、後に革表紙の新約全書を持つようになった。晩年の田中が最も信頼していた弟子の島田宗三は後に、この新約全書を田中に贈ったのは内村だったと思うと語っている。
谷中村時代、田中はこの新約全書をひたすら読み、その実行に努めた。日記に「聖書の実行のみ」という記述が目立つ。1913年9月4日、田中正造は世を去った。この時、彼は革表紙の新約全書の他には草稿、手帳、ちり紙だけしか所持していなかった。6日に密葬が行われ、12日の本葬には鉱毒被害民はもちろん、全国各地から関係者、知人などが詰め掛け、参列者は3万人を超えた。
苦境にあった晩年の田中を精神的に支えたのは聖書だった。「あれほど徹底した形で聖書を実行した人のいたことは、キリスト教会の中では全く知られていません」と、林竹二は著書『田中正造―その生と戦いの「根本義」』(1974年、二月社、後に田畑書店)の中で書いている。(続く:ドイツの脱原発とキリスト教倫理)
■ 環境ジャーナリスト・川名英之コラム:(1)(2)(3)(4)
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