「痛い! 痛いよう!」
けたたましい弟の泣き声がしました。公園には芝生が植えてあり、人が中に入れないように竹の柵でぐるりと囲われていました。弟はそこで遊んでいたのですが、その竹につまずいて転んだ拍子に手首を痛めてしまったのです。火がついたように泣き叫ぶ弟の所に家族が駆け寄りました。両親は、もう心中の相談などそっちのけで弟を抱き起こし、どうした? どうした? と体をなでさすりました。その手に触れると、弟は両足をバタバタさせて、もっと激しく泣きわめきました。
「痛、痛、痛いよう!」
どうやら、手首を骨折したらしく、見る見るうちに腫れ上がってきます。両親は救急車を呼び、子どもたちも一緒に病院に連れていきました。そして、右手をダルマのように包帯でぐるぐる巻きにされた弟と一緒に家に戻ってきたのでした。
あとで知ったことですが、両親は弟の泣き叫ぶ声を聞いたときに我に返り、こう思ったそうです。「自分たちは一家心中をしようと必死になってその方法を考えめぐらしていたけれど、こんな小さな子どもの手が一本折れただけで、こんなにも心を痛め、悲しみと辛さを感じるのだから、とても子ども3人を道づれにして死ぬことなんかできない」と。そして、両親は一家心中することを思い留まったのでした。
思えば、このとき弟が転んでけがをするという事故が起きたのは、心中を止めた神の手であったと私は今でも思っています。せっぱつまって死ぬ決心をした両親の心に神は働きかけ、生きる道があるということ、そして苦しいけれど前を向いてがんばることによって、さらに豊かな人生が待っているのだということを教えてくださったのでした。
その後、私と弟は何もできない小さな子どもなので、父の友人の家に預けられ、姉は少しは家事の手伝いができたので、別の友人宅に引き取られ、両親は仕事を探しにいくということになって、家族はバラバラに別れたのでした。
父の友人宅に弟とともに預けられた私は、それからの生活において、何もかも戸惑うことばかりでした。それまでは家政婦に「食べたいものがあったら言ってください」と言われ、何でも好きなものを作ってもらう生活だったのが、父の友人の家に行ったときから食べたいものを言うのではなく、出されたものをそのまま食べるという生活に変わりました。そして、私は当時6歳でしたが、自分たちがその家の「居候」であり、食べさせてもらっている身なのだということが理解できたので、わがままを言うことがもうできないのだということを実感しました。そして子どもながらに肩身の狭い思いをし、当然のことながら言いたいことも言えないまま、自分の考えや意見も押し殺す習慣が身につきました。こういうことは顔にも出るもので、私は大人たちから何を考えているのか分からない、感情を表に出さない子どもだと言われていました。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。