私が「味づくり」ということに関心を持ち、その勉強を始めたのは、14歳でコックの見習いを始めたときでした。朝店に入ると、野菜の下ごしらえ、包丁を研ぐこと、そして皿洗いなどの仕事が待っていました。この皿洗いは半年間続きました。初めのうちはよく叱られ、怒鳴られたので何度も辞めようと思ったのですが、そのたびに母に励まされて、どうにかこうにか続けることができました。
そのうちに、私の中に、しっかり仕事を覚えて料理のプロになりたいという意地のようなものが芽生えてきました。その陰には親身になって料理を基礎から教えてくれた陳建民先生への感謝の気持ちもあり、こんなに素晴らしい師匠に教わるなんて光栄なことだ――という思いがあったからでした。私はコツコツと皿洗いをしながら、客が残した料理のタレが皿についてくるのを見て、ふと思いました。
(そうだ。自分の舌で客の食べた料理の味を吟味することができるじゃないか)
そこで私は、お皿についたそのタレをなめて、味を自分の体の中に叩き込みました。もちろん、食べ残しの皿はきれいな状態で戻ってくることはありません。タバコの灰が載っていたり、ティッシュペーパーが載っていたり――と、汚らしいものもありましたが、私はタレをなめ続けました。
そのうちに、私はウェイターやウェイトレスなどに頼んで、新しい料理、自分がまだ味を覚えていない料理などが出るときは、その皿の中味を捨てずにそのまま下げて持ってきてもらうようにしました。客が食べた後だから料理は冷めていて、ほとんど残っていない場合もあります。でも、なめることによってその料理の冷たい状態を覚えることができたのです。
また私は、客が残した料理を味・種類別に分けてボウルの中に取っておき、それを冷蔵庫の中に入れておきました。ウェイターやウェイトレスたちは帰ってくると賄いの料理だけでは満腹にならないので「何か作って」と私に頼みます。そこで私は、冷蔵庫をあけて同じような食材を寄せ集め、それを温め直して彼らに出してやりました。こうしたことは、私が料理の味を一つ一つ覚えていく上でとても助けになったのです。
「珍しい料理とか、新しい料理が入ったお皿はなるべく重ねないようにしてください」。私は彼らに前もって頼んでおきました。彼らはとてもよく協力してくれました。それで私は彼らのために、そうして取っておいた料理を温め直して、おいしい賄い料理として出してあげる――ということをしたのです。こうしたことがあって、私はこの店のウェイターやウェイトレスたちととても親しくなり、厨房での仕事も楽しくなってきたのです。
次に見習いに課せられた仕事として「鍋洗い」があります。鍋にはその料理の味がついているので、温かい、出来たての味をなめることができます。その料理を食べることができなくても、鍋についた味をなめることによってその料理の味が分かりました。
さらに私は、料理人が料理を作っているときに、その中に入れる調味料を覚えるためにメモするということもやりました。そして、出来たての料理を盛ったあつあつの鍋をなめることによってその味を記憶していったのです。そのうちに、賄い料理を交替で作らせてもらえるようになったときは、胸が躍ると同時に緊張感で全身が震える思いでした。苦労して味を記憶し、蓄えた知識を自分で料理し再現するのです。そして出来上がった料理を料理長に吟味してもらい、「まあ、いいだろう」と言われたときのうれしさは、今も忘れることができません。こうして、見習いに入った当初はつらいものに感じられた「皿洗い」や「鍋洗い」を通して、私は味の基本というものを一生懸命に勉強したのでした。
「料理は見て覚えろ」ということがよく言われます。私は新しい料理や珍しい料理が作られるとき、先輩コックのやることをじっと側で見ていました。中には意地の悪いコックもいましたから、彼が作るのを側で見ていると、「おいっ、ちょっとタバコ買ってこい」。そう言って遣いに出すのです。
急いで用を済ませて帰ってくると、もうその料理は仕込みが終わっている――ということがよくありました。もちろん、当時は「見て習う」ということが常識で、手取り足取り教えてもらうことはめったにない時代でした。だから、技術は盗むもの、自分の目で覚えるものだったのです。目で覚えるためには、自分の用事を先に済ませ、すべてが終わってからでなくては先輩のやることをじっと見ることはできません。そのためには、正確に手早くということも要求されました。特別な料理の献立があるようなときには、休みの日にも私は厨房に入ってその料理を見せてもらうということもやりました。
このようにして、私は自分の舌をもって一生懸命に料理の味を覚え、勉強することができました。こうして覚えた味は、すべて今の私の料理の元になっていることを思います。それのみならず、現在の自分の生活の一環ともなって役に立っているのです。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。