モーセが紅海を渡ったとき、奇跡は起こりました。「水は彼らのために右と左で壁となった」と書かれています(出エジプト14:21、22)。そのようなことは普通では起きません。常識、感覚的知識によっては理解できません。聖書は、感覚的知識を超えた、啓示的知識なのです。
水の上を歩いていたペテロが沈みかけます。どうしてでしょうか。「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った」(マタイ14:30)
「来なさい」という神の言葉を聞き、イエス様を見ているときは、水の上を歩いていました。それなのに、風を見て感覚的知識に戻り、「こんな風の強い所を歩けるのか」と思ったときに沈みました。
聖書の中には、多勢の敵にたった300人で勝ったギデオン(士師記7章)、賛美しただけで勝利したヨシャパテ(Ⅱ歴代誌20章)の話があります。ありえないことです。しかし、これが啓示的知識です。目に見えないものを信じる知識が、私たちの人生を変えていきます。
「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)
英語の20世紀訳では「to be independent of circumstances」、つまり、環境から独立しているのです。感覚的知識によって生きている人は、環境の中に縛られがちです。水の上を歩けません。啓示的知識を自分のものにしたときに初めて、御言葉通りの事が私たちに起こってくるのです。クリスチャンは、目に見えないものにこそ目を留め、それを信じます(Ⅱコリント4:18)。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。・・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:4~7)
これは、啓示的知識の人になって初めてできることです。いつも喜んでなんかいられない感覚的状況の中では、喜び続けることはできません。しかし、啓示的知識を受け取り、そこに癒やしがあり、そこに財産があり、そこに将来と希望があることを知った人は、どんな環境からも独立しているので、いつも喜んでいられます。いつも神の平安があるのです。
ペテロは、明日処刑されるという牢獄の中で、ぐっすり眠ることができました。それは、彼が啓示的知識に立っていたからです。
祝福は私たちのものです。感謝します。
■ 思慮を得る者は自分を愛する者: (1)(2)(3)(4)
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。