「イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄ってきた。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです』」(ヨハネ8:1~4)
これは皆さんご存じの「姦淫の女」の話です。朝早く、イエス様がオリーブ山に祈りに行かれたのでしょうか。そのあと、宮に入られました。多くの人がイエス様のお話を聞きに来たのでしょう。その時、姦淫の場を取り押さえられた女が真ん中に置かれました。彼女を連れてきた人は「律法学者とパリサイ人」でした。彼らは律法に厳格な人たちです。そして、5節で「姦淫の女を石打ちで殺せ」という律法を使って、イエス様がなんと言うか試したのです。
「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった」(5~6)
この律法学者とパリサイ人は、イエス様を告発する理由を探していたのです。
「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた」(6)
イエス様はお答えになりません。指で地面に何を書いておられたのでしょうか。多分、モーセの十戒ではないかと私は思います。
聖書の中には、律法を守れる人は一人もいないと書いてあります。
「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない』」(ローマ3:10)
律法は守り続けなければ正しい者ではありません。モーセの十戒10個のうち、9個守り、1個守れなかった。だけど9割守ったから大丈夫というものではなく、律法というのは全部守らなければならないものなのです。ということは誰も、あの律法学者とパリサイ人であっても、神様の前に正しい人は一人もいないのです。
ヨハネ8:7に戻ります。イエス様は地面に書き続けておられたのですが、「この女をどうするのですか」と、彼らが問い続けて迫ってくるのです。そこでイエス様は身を起して彼らに「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。
「そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた」(8)。それはモーセの十戒、あるいは彼らの罪を書かれていたのかもしれません。
モーセの十戒の中に、姦淫の罪について石打ちにするようにとは書かれていませんが、ほかの律法の中にあります。ですから、この女を石打ちにする権利がありました。ところがイエス様は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたのです。すると、9節「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」。
ここにいたのは、律法学者とパリサイ人たちだけではありません。イエスの話を聞きにきた人々もいました。その人たちもみんな出て行ってしまったのです。その人たちにも罪があったのです。
私たちはクリスチャン生活をしていて、罪を犯さない人はいないと思います。「私はなかなか祈りがかなえられないのです。どうしてでしょう。私には罪があるのかもしれません」という問い合わせを、このあいだ受けました。私たちは、自分の思い通りにいかないと罪があるのではないかなと思ってしまいます。
■ヨハネ8章より 罪の赦しについて:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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