姦淫の女にも罪の意識がありました。石を投げるように訴えたパリサイ人や律法学者も罪があり、罪を意識していました。彼らを救うためにも、イエス様が来られたのです。イエス様のことばが、聖書にあります。
「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために」』」(ヘブル10:5~7)
イエス様は、律法を終わらせられるため、そして、罪人を招くために来られました。しかし、私たちは罪のある状態では、神の元には行けません。イエス様は何をもって私を、あなたを招くのでしょうか。もう一つ、イエス様が来られた目的があります。
「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(ヘブル9:26)
イエス様は「罪を取り除くために、来られたのです」。そして、「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」(ヘブル10:10)。イエス様によって、「私たちは聖なるものとされているのです」。
旧約では絶えず動物の血を流していました。しかし現在、私たちは罪を犯していますが、動物の血を流しません。イエス様が血を流してくださったからです。また、私たちが罪を犯すたびに絶えず血を流すことはしません。一度きりです。
「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:12)
イエス様は「永遠の贖いを成し遂げられたのです」。そのことによって、今、罪のための捧げ物が止んだことは皆さんご存じです。
今日、皆さんに知っていただきたいことは、姦淫の女が引き出されたその場所に誰がいたか、ということです。姦淫の罪を犯した女がいました。そして彼女は赦されて帰っていきました。イエス様はこのように決めておられたのです。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」(ヘブル10:17)
イエス様はこの女のためだけに来られたのですか。そこにいた、パリサイ人や律法学者、そして聖書を学びに来た人のためにも来られたのではないですか。彼らは罪があったので、そこから去っていきました。しかし彼らは「モーセの律法を守っていない」と、さばかれたわけではありません。先日、電話で話した方は、イエス様の救いが頭では分かっているが、自分の中で絶えず、知らずに犯した罪があるのではないかと悩んでいました。イエス様は決して罪は思い出されないのに、どうして私たちは悩むのでしょうか。それは罪を犯すからです。そのときに、イエス様が何をして下さったかという自覚をもつことができたなら、私たちは祝福されていくのです。イエス様は、父なる神様を通してこのような考えを持っておられました。
「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(イザヤ55:7)
神様は悪者に「主に帰れ」と言っておられるのです。あの姦淫の罪を犯した女に「帰ってこい」、そして、律法学者とパリサイ人たち、聖書の学びを聞きに来た人たち、そして罪があって去っていった人たちに、「帰ってこい」と言っておられるのです。豊かに赦して下さるのです! ここで、赦されなければならないのは、姦淫の女一人だけではなく、この場にいた全ての人々なのです。どこに違いがあるでしょうか。
この赦しは、イエス様によってプレゼントされているのです。そして、この女は赦しを得たのです。他の人たちは罪を持ちながらさばかれることはありませんでしたが、罪の解決をせずに去っていきました。今日、私たちが知らなければならないのは、赦しを受け取らなければならないということです。あなたは絶えず罪を犯すかもしれません。私もそうです。しかし私たちは「さばかれない、決して思い出されない」、そういう者になっているのです。なぜなら、イエス様が「父よ。彼らをお赦しください。私が彼らのために身代わりになったではありませんか。彼らをお赦しください」と言って下さっている、そのイエス様の十字架の意味を真に知ったとき、私たちは自分を責めずにすむのです。
イエス様はその女を責められませんでした。他の人も責める権利がありませんでした。神が私たちを赦しておられる。その赦しを受け取らなければ、私たちは自由になれないのです。そしてその女は、イエス様によって自由にされ、帰っていったのです。
■ ヨハネ8章より 罪の赦しについて:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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