この女が受けるべき罪の制裁とは何だったのか。そして私たちはどのような恵みを受けているのかを自覚していきましょう。
「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか』」(10節)
モーセの十戒を守った者は誰もいません。宮にいた人たちもみな罪を犯しているので、この女を罪に定めることができませんでした。彼女は言いました。「だれもいません」。そこにいたのはイエス様だけでした。イエス様は唯一、正しい方です。罪のない方であり、律法の罪に捉われない方です。イエス様だけがこの女を罪に定めることのできる方です。では、イエス様はこの女に石を投げたでしょうか。イエス様は言いました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(11節)
イエス様は、女を罪に定めず、「今から決して罪を犯してはなりません」と言われました。なぜイエス様はこの女に「あなたを罪に定めない。行きなさい」と言われたのでしょうか。イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言われています。律法を神様から頂いています。その律法を、イエス様はどうなされたのかを私たちは知っています。イエス様が来られた目的とは何でしょうか。イエス様が来られるまでは、律法の罪に定められるという世界でした。イエス様が来られなければ、この女は石打ちにされたでしょう。しかしイエス様が来られました。そして、この女を罪に定められなかったのです。ここに、イエス様がこの世に来られた目的があります。
「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』」(マルコ2:17)
イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られたのです。
私たちも日々の生活の中で、正しいことができない、私はクリスチャンとしてふさわしくない、奉仕に向いていないと思うことがあるかもしれません。しかし神は、私たちが聖い生活をしているかどうか、上から監視し、裁こうとしておられるのではありません。私たちが罪を犯すことを、神はご存じなのです。
私たちは罪人で、正しいことができない、義の生き方ができない、聖書通りにできない。その私、あなた、この姦淫の女を救うために、罪人を招くために、イエス様は来られたのです。だから招かれている人は、いつも「ありがとうございます! 私は赦されている!」ということを体験しているのです。クリスチャンの強さは、罪を犯すか犯さないかではなく、罪を犯しても赦されることを自覚していることです。
なぜ、イエス様はこの姦淫の女を律法に従ってさばかなかったのでしょうか。なぜ、イエス様は罪人を招くために来られたのでしょうか。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(ガラテヤ3:13、14)
私たちが律法を守れないので、イエス様はのろいを一手に引き受けてくださいました。この女は姦淫の罪を犯しました。彼女はその代価を払っていませんが、イエス様は彼女を赦されました。なぜなら、イエス様が「律法ののろい」を解くために来られ、「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」とある通りです。
アブラハムの祝福が私たちのところに来て、私たちは祝福されたものとなる。律法を守れない、行えない者に祝福がやってくる、このような恵みを受けるのです。
■ヨハネ8章より 罪の赦しについて:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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