エルサレム入城の時、「ホサナ。主の御名によって来られる方に」と多くの人に歓迎されたイエス様がその後十字架にかかるとは、誰が想像できたでしょう(マタイ21:8、9)。
しかし、そこに弔いの香油を用意したマリアという女性がいました。イエス様が十字架にかかる前に、マリアだけが目を開かれて、ナルドの香油を準備したのです(マタイ26:7~13、ヨハネ12:3)。何人もイエス様の前にいました。しかし、彼女以外に、その事が分かっていた人は誰もいませんでした。
今あなたが、神が本当におられると信じ、求めるなら、神はあなたに答えて、その目を開かせてくださるでしょう。「ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」(Ⅰコリント1:24)とあります。イエス様を分からずして、神の知恵は分かりません。イエス様そのものが神の知恵なのです。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」(Ⅰコリント1:30)
私たちの目が開かれるのは、「キリスト・イエスのうちにある(in Christ)」という状態にあるときです。目の前の状態だけを見ている人は、どうしてこんなひどい目に遭うのかと悩むでしょう。しかし、神の知恵を受けた人は、キリストの中にある自分を信じています。そのキリストの中にある自分は、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)という人です。
「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされた」(Ⅰペテロ2:24)。その人は、「私は現実には病の中にあるけれど、すでに癒やされた!」と信じることができるのです。そして、信じるがゆえに、そのことが現実に起こってくるのです。
「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです」(Ⅰコリント2:7)
私たちが知ることは、「隠された奥義」、ミステリーなのです。それは、神の知恵によって隠されています。神によって私たちの目が開かれたとき、自分はなんと神に愛されているのか、なぜこんなに祝福されているのかが分かってきます。それがまだ分からない人は、どうぞ、神の前におそれを持って近づいてください。
弟子たちに、どうしてあの種まく人の例えが分かったのでしょうか(マタイ13章)。それは、イエス様に聞きに行ったからです。まだ分からないと放っておくなら、いつまでもそのままです。ところが、イエス様に聞きに行った弟子のように、「神様、教えてください」とあなたが願うなら、それが解かれていくのです。
聖書にこのような言葉があります。
「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう」(ホセア4:6)
多くの人が、祝福されない人生を歩みます。また、クリスチャンであっても、祝福される人とされない人とがいます。その違いは何かというと、「知識がない」からです。
どうしたらもうかるかといったこの世の知識ではありません。神の知識がないので滅びるのです。なぜでしょうか。それは、「神のおしえを忘れた」からです。神の知識を退けたので滅ぼされるのです。あなたが幸せになるためのミステリーが、聖書の中に、神の言葉の中に隠されています。それを求め、捜し、追及する人は、それを見出して体験するのです。
知識には2種類あります。神が分からない人は、一つの知識に頼りがちです。それは、感覚的知識です。目に見えないから神はいない。この知識では、神が分かりませんし、神が与える人生の祝福も分かりません。
もう一つの知識があります。それは、啓示的知識です。見えないところにあるものを知ることのできる知識です。見えないところにある自分の財産を信じることができるのです。見えないから無いのではなくて、見えなくても有るということを信じる知識を持った人は、祝福されます。
啓示的知識を求めて、「分かるようにしてください、私の目を開かせてください」と願えば、その時、あなたは神を知るのです。
「それゆえ、わが民は無知のために捕らえ移される。その貴族たちは、飢えた人々。その群衆は、渇きで干からびる」(イザヤ5:13)
どのような無知でしょうか。社会的に高学歴であるとか、高い地位にあるということではなく、御言葉に対する知識がない、つまり啓示的知識の欠如です。これが故に、治るものも治らないと思ってしまう。もう借金は払い切れないと思い、あきらめて自殺しようと思ってしまう人もいます。
しかし、啓示的知識のある人は違います。イエス様は「見えるもの、見えないもの」を造られたとあります(コロサイ1:16)。目に見えないところに私の財産があり、目に見えないところに私の健康があり、目に見えないところ、天に自分のすみかがあると信じます。私たちは皆祭司なのです(Ⅰペテロ2:9)。祭司であるなら、神の言葉を信じる者でなければなりません。祭司は、神の言葉を拒絶してはいけませんし、神の言葉に無知であってもいけません。神の言葉の知識をしっかり握っているなら、たとえ問題が起きても、「大丈夫、必ず解決する」といつも宣言できる者になっていくのです。
■ 思慮を得る者は自分を愛する者: (1)(2)(3)(4)
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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