20歳を迎えたその年には、大きな変化がありました。陳建民先生が、恵比寿に「中国料理学院」を設立する計画を公にしたのです。
「自分たちが日本に来て生活ができる。そして家族が生きていける。――これもみんな日本人のお陰ではないか。私は今、その恩返しをしたいと思うのだよ」
先生はこう語りました。そして、料理学校を建てて、自分たちの持っている技術を日本人に伝えること。そして、料理の講習会を開き、誰でも気軽に中華料理に親しみ、それぞれの家庭で主婦がそうした料理を作り、味わうことができるようにしたいという意思を明らかにしたのです。私たちはそれに共感し、先生のその志を形にするために動き始めました。
まず26人の料理長が全員集められ、皆がお金を出し合って恵比寿に土地を買い、学校を建てました。そして、講師として交代でその学校で教えることになったのです。私も料理長の仲間に加えてもらったので出資し、「恵比寿中国料理学院」の株主の一人となりました。この26人の料理長がそれぞれ自分の部下を持っていましたから、料理長が教えに行ったり、部下が行ったりして生徒に料理を教えました。これは、中華料理専門の学校として当時とても評判になりました。夏期講習には日本全国から何百人という人が集まり、席を取るのが大変――という大盛況でした。
このように、「恵比寿中国料理学院」の人気が高まるにつれて、マスコミも注目し始めました。そうしてある時、「講師を派遣してください」という要請が料理番組のプロデューサーからあったのです。学校は直ちに講師となるコックを派遣しましたが、私もその中の一人でした。思えば私は、17歳で重慶飯店の料理長になったのをきっかけに、どんどん道が開かれていったように思います。仲間のコックたちと親交を持ち、また料理長たちとも中華街で一緒に飲んだり食事をしたりと交わり、勉強会を続ける中で次々と新作料理に挑戦し、味の研究をするという喜びと楽しみが与えられました。そして、20歳になった時、思いもかけず料理学校に講師として招かれ、その後テレビに出演するということになったのでした。この時、私は最も力にあふれ、また前途に対して明るい見通しを持っていた、そういう時代だったように思えます。
それにしても、私の生活は多忙をきわめていました。自分の店である重慶飯店の料理長として賄いの責任をとる傍ら、恵比寿の料理学校の講師として教え、テレビの料理番組に出演するという忙しさでした。私は多くの人を前にして料理を教える時、四川料理の奥の深さを知ってほしいと願いつつ、テレビに出演する時もそう思いながらできるだけ一般の人にも分かりやすい形で紹介しました。
今ここにそれらの講義や講習会で使った資料をメモしたものが残っているので、四川料理というのはどういうものであるか、簡単に紹介したいと思います。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。