島根県の西端に位置し、山口県と境を接する小さな城下町・津和野。JR山口線津和野駅の裏手から谷あいの小径(みち)を徒歩で5、6分ほど登ると、小さな十字架を戴(いただ)いたキリスト教のお堂が見えてくる。「乙女峠マリア聖堂」だ。登り切ると公園風に整備された緑豊かな広場が目に入り、奥には大きな石の記念碑や小さな池、真っ白なマリア像の姿も見える。春には桜、初夏には新緑が美しく、観光客や地元の人たちの憩いの場にもなっている。
しかし、現在の穏やかな雰囲気からは想像しにくいが、ここはかつて悲惨な歴史の舞台であった。明治新政府のキリスト教弾圧政策によって、長崎の浦上からここに連行された153人のキリスト教徒が、津和野藩から過酷な迫害・拷問を受け、最終的に37人もの殉教者を出したのである。「乙女峠」という呼び名は後のもので、当時は既に廃寺となっていた光琳寺を「異宗徒御預所」として使った。
1865(慶応元)年に長崎・浦上でキリスト教徒が発見されたことに端を発し、最終的に浦上の全村民約3400人が、明治政府によって西日本の10万石以上の諸藩に配流された事件は、いわゆる「浦上四番崩れ」と呼ばれている。なぜ、わずか4万3千石の津和野藩が例外的にこれほど多くの信徒を受け入れたのかというと、津和野藩出身の国学者・福羽美静が、「処罰」によってではなく「説諭」によって信徒を改宗させるべきだと提案したからである。当時、福羽は明治政府の中枢にあって、津和野藩出身の国学者・大国隆正による国学思想をバックボーンとして国の宗教政策を担っていた。
津和野藩はまず、1868(慶応4)年6月に28人のキリスト教徒を受け入れた。初めは待遇もよく、最初の1カ月は穏やかに過ぎた。やがて僧侶や神官、藩士らの「説得」が始まり、それは「吟味」となり、次第に厳しさを増していった。食物などの待遇も徐々に冷遇されていったという。数人の改宗者が出ると、他の場所に移されて十分な待遇が認められた。一部は、就労などある程度の自由や、藩内の集落への自由居住も認められた。しかし一方では、ほとんどの信者が強い信仰心で改宗を拒んだ。
藩はさらに改宗者を増やそうとして、「吟味」は「拷問」へとエスカレートし、ついには、「三尺牢(ろう)」による責めに踏み切った。三尺牢とは、その名の通り三尺(約90センチ)四方の立方体の木製の牢(というよりも、ほとんど檻=おり=)で、この中に入れられると自由に手足を伸ばすこともできない。天井部分に開けた小さな窓からわずかな水と食物を与えるのみで、この中に数十日も監禁する、過酷で陰湿な責め道具である。
また、三尺牢は改宗者が自由に生活する近くに置かれた。狭い牢の中から改宗者の解放された好待遇の生活を見せつけるためだったといわれ、肉体的な苦痛に加えて、精神的苦痛をも加える非人道的な責めであった。
三尺牢の最初の犠牲者は、入牢から20日後の1868(明治元)年10月9日に殉教した和三郎(26)だった。次は、安太郎(29)が翌年1月22日に殉教した。なお、安太郎は三尺牢の中で、毎夜出現した聖母マリアの姿に励まされたという伝説が残されており、このことは、絶筆として『乙女峠』を著した永井隆博士や後に津和野に赴任したパウロ・ネーベル神父も著書などで紹介している。
さらに悲惨な拷問は「氷責め」である。真冬、氷の張った池の中にキリスト教徒を長時間入れ、ひどい時には頭の上から水をかけたこともあったという。こうした厳しい拷問によって、第一次者28人のうち3人が信仰と命を引き換えにした。
第一次受け入れの1年半後の1870(明治3)年1月には、さらに125人を受け入れ(第二次)、一次者と合わせて総勢は153人となった。二次者には、一次者の家族、年少者、老人、女子が多く、一次者以上の迫害が加えられたという。それを示すように、二次者ではわずか1年4カ月のうちに31人の殉教者を出している。
しかし、こうしたキリスト教徒に対する拷問の実態が、外国使節団を通じて欧米諸国で報道されたため、自分たちと同じ宗教の信者を弾圧する明治政府を厳しく非難する国際世論が湧き上がってきた。これは、迫害の終焉(しゅうえん)に向けた一筋の光であった。
まず、英国公使によるキリスト教徒待遇改善要求によって、政府は早急に一斉調査と各藩への待遇改善を指示した。津和野藩にも1871(明治4)年5月、外務権大丞(ごんのだいじょう)が調査に入り、これ以後待遇は大幅に改善されたという。
続いて、同年から不平等条約改正準備のために欧米を訪れていた岩倉具視らは、米国をはじめ行く先々で日本における信教の自由を要求された。岩倉はこの要求への対応が条約改正に不可欠であると考え、日本政府と何度も交渉した。日本政府は、初め内政干渉であるとして退けたが、その後も各国からの要求、非難はますます強くなり、ついに1873(明治6)年2月24日、明治政府は「キリシタン禁制の高札撤去」を布告、続けて同年3月14日には太政官通達をもって「長崎県下異宗徒帰籍」を命じた。
これらの布告を受け、津和野でも浦上の信者たちの帰郷が同年5月に始まった。第一次から丸5年、第二次から3年半ぶりの喜びの帰還である。ただし、残念ながら乙女峠には、この間に37人の尊い命を失った悲しい歴史が刻み込まれた。
しかし、このキリスト教解禁措置について歴史家は、必ずしもこれをもって日本において信教の自由が確保されたとは言えない、とみているようだ。つまり、この解禁措置は、外国との条約改正交渉進展のための表面的な信教の自由の保証に過ぎなかった。そのことは、キリスト教徒には1884(明治17)年まで、キリスト教独自の葬祭を許可しなかったことが示している。1873(明治6)年の解禁令を出した当時の明治政府にあったのは、ただ文明国家建設の体裁を整えるためだけのキリスト教解禁であり、そこには真の信教の自由の理念も人権尊重の思想もなかったといえる。(続く)
■ 津和野「乙女峠」―殉教の記憶と償いの思いを未来へ: (1)(2)(3)
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