料理修業の道へ②
それから、何くそと歯を食いしばって、また鍋磨き、釜磨き、そして皿洗いに励みました。また、雑用を言いつけられても嫌な顔をせずにできるだけ手早くやるようにしました。しかし、日々の修業はやはり辛く感じられました。そんな自分がたまらなく惨めに思われ、私はよくトイレに隠れたり、帰りの電車の中でこらえ切れなくなって涙を流したりしたものです。
そんなある日のこと、辛い思いが重なり、体調の悪いのを我慢し続けてきたことも限界にきて、プツンと糸が切れたように私はこの仕事を続けていく自信がなくなりました。私は店を辞めようと思いました。「お母さん、ごめんなさい。ぼく、何とかものになるかと思ってがんばってきたけど、もうだめだ」。私は、母に訴えました。「もう辛くて、辛くて、これ以上できないよ」
すると母は、両手を私の肩にかけ、じっと顔を覗き込みました。それから、涙をこぼしながら言いました。「ごめんなさいね。うちの家計のために学校を出すこともできず、あなたをそんな辛い中に置いているなんて。本当にごめんなさい」。そして、最後に言いました。「今日はもう遅いから、明日会社に電話してそう言ってあげるよ。だから、もう寝なさい」
面白いもので、このように母からなぐさめられると、翌朝起きたとき、何とか行けるかなという気持ちになり、また仕事に出かけました。こんなことを何度かくり返し、やっぱり辛くてだめだと挫折し、また母に言いました。
「ごめんね、お母さん。やっぱりだめだ。辛いことが多すぎる。どうやってそれを乗り越えたらいいか分からなくなっちゃった。やっぱり・・・店を辞めていいかな」。すると、母は言いました。「そうかい。じゃあ辞めてもいいよ。でも、今日は24日だから、もう1日行くと会社の締めもいいし、もう1日だけ何とかできないかねぇ」「分かった。じゃあもう1日やってみるよ」
そして翌日また店に出たのですが、1日のはずが2日、3日、1週間と続き、このまま何とかなりそうだというところまできました。そのうち、後輩が入ってきて仕事も徐々に楽しくなってきました。そして、私より半月前に入った先輩と良きライバルで、競い合って料理を覚えたものです。このころになると目が開けてきて広くものが見えるようになり、厳しい先輩コックの言葉の中にも何か親しみのようなものが感じられて、それに対して冗談を言って返せるような余裕も出てきました。そのうちに、やった仕事の中で一つ二つと褒められるようなことも出てきて、それは自信とやる気につながり、私はその修業の日程を何とかクリアすることができたのでした。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。