考えるとは
私は聖書に出会うまでは、いろんな本を読むことが大好きであった。これは、子どもの頃からの習慣であった。また折に触れて、感想文を書いたり、日記を書いたりするのも好きであった。しかし今は、あまりいろんな本を読んだり、また日記を書いたりしなくなった。これらは、いわば大学で論文を書く時のように、多くの資料を読み、自分の考えを加味し、組み立てる哲学的な方法で、中心に常に自分の考えがあり、それが喜びでも楽しみでもあった。自分の考えが中心にデンと座っていることが誇りであり、これがないと、物足りなくて書いた気がしないのである。これはほとんどの人の考え方と同じであろうと思う。
しかし、聖書を知るに至って、先にも述べたように、私はあまりこういう作業に興味を持てなくなっていった。真理を得たと自分では宝物を掘り当てたような気持ちでいても、あとで読んでみるとそれほど斬新でもなく、また聖書の中にもちゃんと記してある。しかももっと深い洞察をもって記されたのである。いわば私の考えは、「下手の考え休むに似たり」というのと同じである。
一体、瞑想とは、悟りとはどういうものなのか。聖書は森羅万象がちりばめられてあり、私たちが祈りをもって瞑想するならば、必ずや最も相応しい御言葉に出会えるはずである。私が考えるということは、つまりパソコンでサーフィンするように、聖書の御言葉を探し出すことである。御言葉の蓄えの少ない私にとって、康子のように御言葉はすんなりと出てこない。その都度、索引やコンコルダンス、参考書や人に聞いたりして、御言葉を思い出している。御言葉は、必ず実生活の足のともしび、道の光となってくれる。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)
「イエスは答えて言われた。『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と書いてある。』・・・イエスは言われた。『「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある。』・・・イエスは言われた。『引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある』」(マタイの福音書4:4,7,10)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)
(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)(30)(31)(32)(33)(34)(35)(36)(37)(38)(39)(40)
◇
米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。