ゆとりのある信仰
「こんな信仰ではいけない。もっと信仰深くならなければならない」と慢性的に習慣的に考えているクリスチャンは多いのではなかろうか。いわば、自虐的な考え方である。また他方、自分は一昔前に比べれば、信仰的にも立派になったと考える人もいるかもしれない。
ここではっきりさせておかねばならないのは、信仰とても、自分の努力で得られるものではないということである。神からの賜物である。神は私たちが尊大になったり、卑屈になったりするのを防ぐため、信仰すらも私たちの力によってではなく、神の恵みによる賜物とされた。
常に反省ばかりして自虐的になっているのは、いわば自分のことばかり注目していることになる。神のことには注目していない。こういう生き方を神は喜ばれない。私たちの国籍は天にあり、霊的には、すでにその一員であることに喜びを持って毎日を送っている方が、神に喜ばれる生き方である。
過去を振り返ってみると、私の信仰などは本当にアップダウンの激しいものであり、特に、ダウンの状態に安住していたことの方が、断然長かった。私たちは神より与えられた信仰を持ちつつも、生まれつきの体を持って生きている限り、このアップダウンも避けられないが、なるべく避けるべく、注意深くあるべきだ。
信仰と賜物は、深い相関関係にあるが、無理をせず、私たちの努力でなく謙虚な祈りによって得た賜物の確認によって、つまり分相応の働きをすべきである。決して力まず、高ぶらず、ひがまず、とどのつまり信仰にもゆとりが必要である。
「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい」(ローマ12:6)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。