無益な者になったとき、無価値な者になるのか
私たちが生まれたときは、普通は皆に愛され、家族の喜び、和らぎの源となる。その意味で、赤ちゃんは十分役に立っているといえる。子どもになってからも同じである。両親に迷惑をかけることはあっても、両親にとっては、子どもを育てることは希望でもあり、目標でもある。子どもがいるからこそ、毎日つらいことも乗り切れるということもある。青年・壮年期は、本人が何らかの形で社会に貢献している。たとえ生活のために働いているにしても、労働は決して単発的なものではなく、社会とリンクしていて何らかの役に立っていると思う。
そこまでは良いが、しかし私たちが年老いて病気になり、家族に迷惑をかけ、社会的にも社会保障や公的年金など、非建設的なネガティブな費用のみ要するようになってくると、表面的には、私たちは何の役にも立たないし、むしろマイナスである。社会的には有益ではないし、有害であるともいえる(少なくとも、経済的な側面、表面的には)。長生きした私たちのたどる晩年である。
もし親が長生きしておれば、どう考えるであろうか。年老いた私たちを無益な者と考えるだろうか。健全な親ならば、いくら年老いて病気になっていたとしても、社会的には無益であるとしても、私たち老人をいつまでも自分の子どもとして愛し、生きているだけで喜びの目をもって接してくれると思う。
私たちの親である創り主も同様である。有益であるに越したことはないが、私たちが有益無益に関係なく、生きて存在していることを喜んでくださる。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)
「わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(イザヤ書43:7)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。