私たちの周囲に「あの人は我慢強い人だ」と感じている人がいるのではないでしょうか。あるいは、あなた自身が「あなたは我慢強い人ですね」と言われているかもしれません。人間には、喜怒哀楽という感情があります。我慢強い人は、喜怒哀楽の感情表現がとても苦手な人が多いようです。このような人は、感情を出さないことによって防衛しているのです。なぜなら、素直な感情を出すことによって否定された経験を積んでいるからです。
私たちは子どもの頃、失敗し悔しくて涙を流す経験、弱音を言って叱られた経験などを積み重ねて成長します。そんな経験の中で「弱音を吐くな」「もっと男らしく歯を食いしばって乗り越えろ」などと言われ続けた経験をしているのではないでしょうか。このような経験を通して人は、「決して~してはいけない」「決して甘えてはいけない」「決して話さない」「決して人を信頼しない」「決して泣き言を言わない」という決断をしてしまうのです。その結果、「強くある=我慢強い」ことがその人の生き方となってしまいます。そのため、自分から心を開かない人となってしまいます。
このような人は、大勢の人の中にいるよりも一人二人の個人的関係を好む傾向があります。また、自分の感情を出さない分、とても他者に対して親切で支持的(サポーティング)です。そのためでしょうか。一緒にいて気持ちが良い人であり他者を尊重する傾向があります。そして、物事に対して受け身的で自分から問題解決をすることは少ないものです。我慢強い人は、困ったことが起こると立ち向かうよりも引きこもったり、考え込んだりする行動を取ります。例えば、何らかの話し合いや会議などでは最初に発言したり質問をしたりすることは苦手です。
パウロは、コリント人への第一の手紙13章4節から始まる愛についての中で「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」と言っています。つまり、パウロは、「愛は忍耐である」と言っているのです。パウロは決して「愛は我慢強い」とは言っていません。我慢と忍耐は違うからです。忍耐は神様や隣人に対する期待と希望です。それに対して、我慢強いは喜怒哀楽を出さずに対処する生き方です。私たちは、様々な出来事に遭遇し、問題課題を抱えます。また、人間関係に悩みます。その対処の仕方は、我慢でしょうか。それとも忍耐でしょうか。
私たちの教会生活はどうでしょうか。私たちが、神様の前に諸問題を我慢することによって対処しているとしたら、成育暦の問題であり、信仰の問題ではありません。私たちが信仰によって解決しようとするなら、ヤコブのように神様と格闘するでしょう。神様に向かって喜怒哀楽を発信してみてはどうでしょうか。そして、神様に甘えましょう。
■ こころと魂の健康: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)
(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)
◇
渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。