元気に健やかに見える人が、劣等感を抱いていることがしばしばあります。また、自信を失っている人の内に、深い劣等感があることは少なくありません。それだけ、劣等感と言われ、自分に思いあたらない人はいないでしょう。人は誰でも程度の差はあれ、劣等感を味わって生きています。その劣等感を覆い隠すため、背伸びをしているのです。ある人は、学歴や資格で隠そうとし、また人より多くの財産や名声を得ることで隠そうとします。人は周囲に劣等感を気づかれまいとして、背伸びをしています。そして、競争に疲れ生きることに疲れてしまうのです。生きることに疲れている原因の一つがそこにあります。
私の中学時代の同級生に5人の教師の子どもがいました。その5人の内の一人が私でした。私は5人の中で一番成績が悪かったのです。いつも親や先生方から比較されていました。そればかりか、親は私と弟たちを比較していました。私は、「何をしても駄目」「どうせ駄目なんだ」などの気持ちで一杯になり、自信を失ったのです。人の前に立って話すことが出来なくなりました。人の前に立つと、手や足が震え、脂汗が額から流れるようになったのです。そして、人の評価が気になって仕方がなくなりました。また、隣の家がすばらしい世界に見え、自分の惨めさを味わっていました。今振り返ると、当時は劣等感の固まりとなっていたのです。
生まれてすぐに劣等感を味わう人はいません。生育史の過程の中で、誰とどのように比較され、評価されて育ったかによって、劣等感は形成されます。また、私たちは、評価されてきたように人を評価するものです。その評価の仕方が人を苦しめ、人を駄目にしているのです。人を駄目にする方法は簡単です。やたらと誉めるか、否定するかです。一方は高慢になり、一方は卑屈になります。人は、育てられたように人を育てるものです。私たちは、どのように評価されてきたのかに気付くことが大切です。気がついたら修正すればよいのです。
教会生活の中にも同じ現象があります。私たちは、奉仕をする姿から人々を比較し、評価しています。その評価の仕方が劣等感と優越感を作り育て、罪を生んでいるのです。劣等感も優越感も、本質は同じです。神はそうならないために、賜物を与えたのです。その賜物を通して、それぞれふさわしく仕えるためです。私たちは、賜物を訓練される必要があります。しかし、賜物を争う必要はありません。互いに与えられた賜物を認め合う関係の中に、健康な日常生活があり、命があるのです。私たちは、相対的価値基準で評価し、人を見ます。しかし、神は絶対的価値基準で私たちを見ているのです。絶対的価値基準は、十字架の愛です。この愛は、比較の中で愛するのではありません。神は、私を私として100パーセント価値ある者として愛しているのです。この愛の中には、劣等感も優越感もありません。
■ こころと魂の健康: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)
(12)(13)(14)(15)(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)(23)(24)(25)(26)(27)(28)(29)
◇
渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。