ある日私は、青年たちと教会の奉仕について語り合っていました。すると、ひとりの奉仕に熱心な青年が「僕は、目立たない奉仕が特に大切であることは十分に理解しています。しかし、それが継続できません。そんな気持ちが生じると空しく感じてしまいます。僕は目立つ奉仕が好きなんです」と語りだしました。率直で素直な感情です。私とのやり取りの中で彼は、気が小さいわりに自己顕示欲が強い自分に気がつき始めました。そして、彼は、なぜ自己顕示欲が強くなったかについて振り返り始めたのです。
私たちは、自分自身の成功した体験や嬉しかったことを話す人、人に褒められて喜んでいる人などの姿に対して二つの反応があるようです。その一つは、「能ある鷹は爪を隠す」ものですと叱責したり注意する人です。その二は、あの人は「高慢な人」「自己顕示欲の強い人」と評価する人です。現実は、この二つが一緒になり「自慢ばかりして嫌な人だ」となってしまっています。
私たちは、否定的な評価を受け続けていると自分の気持ちを押さえてしまいます。そして、「どうせ素直な気持ちを言って否定され傷つくなら黙っていよう」「誰も気持ちを分かち合ってくれないから黙っていよう」となります。残念ながら私たちは、人にもそんな思いを経験させています。そして、お互いに否定しあい傷つきあっている姿に気がつかないのです。
人は誰でも、自分が経験した喜びや達成感を肯定してもらいながら分かち合ってほしいのです。承認してほしいのです。人は、この承認が乏しければ乏しいほど自己顕示欲が強くなります。また、人間関係が下手になってしまいます。そればかりか、自分も人もなかなか信頼することが難しくなってしまうのです。人は、自慢話をしているのではありません。高慢になっているのでもありません。感情のキャッチボールをしたいのです。一緒に喜び受容し肯定してほしいのです。存在価値を認めてほしいのです。自己顕示欲はそんな心の叫びなのです。それだけ心の栄養が不足しているのです。そして、目立つことで愛の不足を補おうとしているだけです。それだけ渇望が深いのです。
その青年は、その自分の渇望に気がつきました。そして、抑圧していた感情を語りながら受容され肯定され続けて行く過程の中で回復していきました。そればかりか、主イエス様が十字架でありのままの自分を深いところまでも知って愛して下さっていたことにも気がついたのです。なによりも、主イエス様が十字架上で受けた両手と両足の傷が証拠なのです。それから彼は、目立たない奉仕を喜んで出来る者に変えられて行きました。
私たちは、心の内に承認の渇望と必要性が潜んでいることを認めることが大切です。そうでないと、その必要性に支配され管理されてしまいます。その必要性を否定する人は不誠実か、冷たい人になってしまいます。また、何歳になっても自分の心に触れることを避けてしまいます。
私たちは、自己存在が承認され肯定されたい渇望を満たすために奉仕に熱心であることがあります。そのようなとき、自分の奉仕に対して周囲から感謝の言葉が聞こえてこないと怒りや不満が生まれるのです。そして、神や人を責めてしまいます。心の奥底に承認を期待しているのです。その欲求が満たされるまで神や人を責め続けてしまうのです。人は皆、小さく弱い存在なのです。
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渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。