私は、教会員の方々から説教中の癖について真似をされることがあります。その姿を見ている他の教会員はクスクス笑います。その度に感じることは、「人の笑いをさそう癖は人間関係の潤滑油になる」ということです。しかし、私たちには、人間関係を気まずくしてしまう癖があるのではないでしょうか。それは、人を判断(評価)する仕方ということです。私たちは日常の中で人から「あの人はこういう人だ」「この人はこういう人に違いない」などと聞くことがあります。また、自分自身が他者から同じような判断(評価)をされてしまうこともあります。この判断が的外れの場合、自分と人を傷つける結果となってしまうことが少なくありません。実は、このような判断こそ認知の歪みです。この認知の歪みこそ、人が人を判断するとき癖となって現れてしまいます。この認知のパターンの源にあるのが思考の仕方です。どんな思考パターンがあるでしょうか。
第一は、「断定的思考」です。これは、限られた範囲の中で断定しようとするパターンです。この傾向のある人は、自分を「賢い」か「馬鹿」かのどちらかで判断してしまいます。また、人を勝者か敗者かという視点でしか判断できない傾向があります。つまり、思考パターンが「白か黒」ということです。このような思考パターンを持っている人は完全主義者です。そして、人や自分の曖昧さを良しとできないばかりか、赦すことができません。その上、自分の枠組みに当てはる人は「素晴らしい人」、そうでないと「いい加減な人」という判断になってしまいます。
第二は「直線的思考」です。これは、「もし~であれば~である」という思考パターンです。この傾向のある人は、「教会の奉仕が少なければ気持ちが楽に行けるのに」「教会に同世代の人がいれば楽しいのに」などと条件を付けたり、相手の責任にしてしまいます。このような人たちは、「教会に行くのに気持ちが重いのは、自分の容量をこえているからだ」「教会に同性代の人がいなければ、同性代の人を連れていこう」という思考になかなかなりません。学生であれば、「授業がもっと楽しければ学校が楽しいのに」となるでしょう。しかし、「理解できないことを積極的に質問できれば、授業が楽しくなるばかりか、学校も楽しくなるのに」という思考になりにくいのです。このように、この思考パターンは、現実的でないばかりか、人に責任を転嫁してしまいます。
第三は、「否定的フィルタリング」「肯定的フィルタリング」です。この傾向のある人は、自分にとって否定的なものや肯定的なものだけを受容してしまいます。ですから、否定的フィルタリングが肯定的なことを見逃してしまったり、肯定的なフィルタリングが否定的なことを見逃してしまったりします。教会生活で起こっている具体例として、「私が困っているとき、教会はほとんど何もしてくれなかった」「牧師はいつも人の都合も確認せず、私に奉仕を依頼してくる」「また牧師や役員から、私の奉仕について絶対否定される」「牧師はまったく私の気持ちなんかわかっていない」などと思い込んでしまう傾向があります。これらの言葉の「ほとんど」「いつも」「絶対」「まったく」という表現こそ、認知の歪みの可能性を含んでいます。
このような言葉を頻繁に使用する人に、「10回のうち何回くらい『ほとんど』『いつも』『絶対』『まったく』と思うことがありますか」と調査したことがあります。すると2~3回だけのことで「いつも」「ほとんど」「絶対」「まったく」となってしまうことが確認されました。これは明らかに認知の歪みです。
これらに共通していることは、事実を確認していないということです。もし99%あっていても1%違っていたら100%違うのと同じです。私たちは、思い込みで人を判断したりせず、確認する習慣を身につけたいものです。
これらの認知の歪みは、基本的に成育史の中で養育者から学習するものです。自分の成育史を振り返り、認知の歪みがどこで学習したものであるかを知り、修正したいものです。認知の歪みのない人はいません。しかし、ひとりだけ存在します。それは、イエス様ご自身です。
ルカの福音書18章に「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください』と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです』と言った」(ルカの福音書18章35~41節)という記録があります。イエス様は、ホームレスになってしまった盲人をご覧になり、「絶対この盲人は目が見えるようになりたいのだろう」「この盲人は目が見えるようになりたいのだ」と思い込み、判断したのではありません。イエス様は、この盲人に「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられました。つまり、確認されたのです。イエス様は確認作業を怠っていません。
パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ人への手紙12章2節)と言っています。パウロが言うように「心の一新によって自分を変える」歩みをすると良いのではないでしょうか。そうすることによって、神様と自分と隣人との関係をより健康なものとすることができます。もちろん牧師もです。
■ こころと魂の健康: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)
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渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。