50年ほど前、目の前をゴキブリが走った。キングサイズの見事なゴキブリ。と、素早い手がそのゴキブリを捕まえ、ボキッと折ってごみ箱に捨てた。その間、わずかゼロコンマ何秒の早業。
まだ小学生だった私と妹がびっくりしてその手の主を見ると、そこには夏のだぼっとしたおばさんワンピを着た中年女性が、がははと笑っている。目もそらさず話も途切れさせず退治した彼女を、私と妹はちょっと嫌悪、ちょっと尊敬の目で見上げた。
彼女の名は菊江。私の祖父の妹だったが、私の母の兄と結婚した。その後、自分の甥である私の父と、自分の義妹である私の母との縁談をまとめ結婚させた。それで、彼女は私の大叔母であり私の伯母でもある。昔はどこの家も子どもが多かったので、こういうややこしい関係はよくあったようだ。
彼女はアブナイ人だった。ゴキブリにとってだけでなく、わたしたち子どもにとっても。私の生家は代々長男の母屋だったし、ゴッドマザーの曾祖母もまだ健在だったので、菊江伯母を含む親戚がいつも出入りして、にぎやかだった。
大人たちが話しているとき、座がどっと湧く。その中には、たいていこの菊江伯母がいた。そしてまだ若かった母が顔を赤らめながら、子どもたちに「あっちへ行って遊んできなさい」と命じるのだった。愉快でエッチでかなり下品なところもある。それが菊江伯母という人。彼女の苦労は多かった。
結婚した伯父は、長男長女が生まれても仕事が長続きせず、いつも貧乏だった。菊江伯母は重い荷物と大きなお腹を抱えて行商して、ひたすら働いた。続いて二女が生まれたが、重度の障害を負っていた。それでも叔父は働かない。そして二男が生まれた。子どもは4人になったが、生活はますます苦しくなった。
菊江伯母は、行商の傍ら保険会社に勤め、親戚中勧誘して回っていた。菊江伯母が泣いているのを聞いたことがある。夜、自分の母親である私の曾祖母に訴えながら泣いていた。私の部屋はふすま隔てて曾祖母の隣だったので聞こえたのだが、「借金しに行ったら、居留守使われた。はがい(口惜しい)」。大人が泣いている。それも日頃笑ってばかりいる菊江伯母が。私は驚き悲しくなった。
伯母は、どこへでも、はっきりと障害の目立つ自分の娘を連れていきかわいがっていた。働かない伯父とも睦まじかった。自分の姉妹の病気の時など親身だった。
私は彼女が好きだった。でも、まさかその菊江伯母が、イエス様を信じて救われるなんて。それも親戚のトップを飾って。(続く)
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井原博子(いはら・ひろこ)
1955年、愛媛県伊予三島(現四国中央市)生まれ。大学入試に大失敗し、これだけは嫌だと思っていた「地元で就職」の道をたどる羽目に。泣く泣く入社した会社の本棚にあった三浦綾子の『道ありき』を読み、強い力に引き寄せられるようにして近くのキリスト教会に導かれ、間もなく洗礼を受けた。「イエス様のために働きたい」という思いが4年がかりで育ち、東京基督教短期大学に入学。卒業後は信徒伝道者として働き、当時京都にあった宣教師訓練センターでの訓練と学びを経て、88年に結婚。二人の息子を授かる。現在は、四国中央市にある土居キリスト教会で協力牧師として働き、牧師、主婦、母親として奔走する日々を送る。趣味は書くこと。