先日、上村遼太君が殺害された現場の実況見分が行われました。その3日前に現場に行ってきましたので、TVでその一部始終が行われている様子を見ながら、位置関係が手に取るようにわかりました。実況見分には殺人犯の少年が立ち会っていますので、少年の顔や姿が見えないように、ブルーシートと電話ボックスのようなテントで覆い囲っていました。
犯人が少年とは言え、つくづく、日本が被害者より加害者に寛容な国だと痛感させられます。犯行を認めていますので、有罪は間違いないだろうと思います。しかし、2人以上殺さないと、まず死刑にはならず、懲役15年、もしくは無期懲役が求刑されることと思います。
先日、田代まさしさんの刑務所生活の体験談を聞きました。刑務所は、ただ自由が奪われるだけで、反省し、償いをするような場所ではなく、ただ「一日も早くここから出たい!」としか感じず、反省どころか、「もっとうまく覚せい剤を使用していたら、今でも刑務所なんかに入る必要はなかったのに!?」と考えていたそうです。そして、昨年の7月に府中刑務所から出所してからが、反省と償いの日々だそうです。
仮に、殺人犯が死刑に処せられても、遼太君はもう帰ってはきません。少年とは言え、これだけのリンチ殺人を行ったような犯人は、個人的には顔をさらしてもいいのではないかと思いますし、日本にはありませんが、終身刑に処してもいいのではないかと感じます。
ところで、なぜ、あの少年たちが殺人犯になってしまったのでしょうか。18歳のリーダー格の証言を間接的に聞いていると、見えてくることがあります。その一つが、「劣等感」です。
「カミソン(上村君の あだ名)が慕われていることに、むかついた」
「先輩として立てていないので、いらっとするところがある」
「(上村君に)チクられて(告げ口されて)頭にきていた」
「生意気だ」
これらの言葉から、自信のなさが現れています。劣等感の反対は優越感のようですが、劣等感と優越感は同じ根っこから出てくる感情で、比べる相手や状況によって、シーソーやエレベーターのように上がったり下がったりします。遼太君に対して劣等感を感じたので、いじめたり、殴ったり、蹴飛ばしたり、殺すことで、何とか優越感を得ようとしたのだと感じます。
では、劣等感の本当の反対は何でしょうか。それは、あるがままの自分が好きで、人と自分を比較しないことです。ですから、劣等感や優越感を感じません。「自分は自分で良い」と感じます。もし、少年が劣等感を克服し、あるがままの自分を受け入れているとしたら、遼太君をかわいがり、大切にしただろうと思います。しかし、劣等感は執念深く、そう簡単に克服することはできません。そこに至るまでには、数々のプロセスがあったはずです。
聖書には、劣等感による殺人の記事が書かれています。最初の人アダムに2人の息子がいました。その2人はアベルとカインで、一方がもう一方に劣等感を感じ、嫉妬に燃え、カインがアベルを殺害しました。人類最初の殺人です。また、イスラエルの初代の王であるサウルは、後に2代目の王となったダビデに劣等感を感じ、嫉妬に狂って殺そうとしました。
「ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』」(Ⅰサムエル記18章6、7節)
サウル王は、自分に「千」を当て、若いダビデに「万」を当てたことに劣等感を感じました。嫉妬に燃え、何度も何度もダビデを殺そうとしました。ダビデは、サウルにとって優秀で忠実な部下です。また、大切な娘婿です。そのダビデを殺そうとしたのは、劣等感という感情でした。あの少年も、劣等感を感じて、嫉妬に狂って遼太君に殺意を抱き、ついに命にまで手をかけてしまいました。
劣等感は、実は、誰の心の中にも巣食っています。あなたの心の中にも劣等感はありませんか。人と自分を比較する必要もないのに、比較するので劣等感を感じます。だから、嫉妬を感じるのです。これらの感情があると、とても生きにくくなります。幸せが奪われてしまいます。
一体、どうやったら劣等感を癒やすことができるでしょうか。神と和解をすることです。
「あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」(ヨブ記22章21節)
神と和解をするためには、罪の償いが必要です。そのために、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さり、復活して下さいました。キリストを救い主と信じることで、神との和解が成立します。
神と和解をしたら、
- 罪が赦され
- 神の子どもとされ
- 永遠の命が与えられます。
ただ、心配になることがあります。一度罪を悔い改め、救われたけれど、再び罪を犯したら神との和解は不調になるのではないだろうか。人間の和解は、いつでも不調に変わる可能性があります。また、多くの宗教の救いも、いつでも失う可能性をはらんでいます。
仏教のある僧侶に、「いつまで修行をしたら極楽(天国)に入れますか?」と聞いた人がいます。僧侶は、「そんなこと、死んでみなけりゃわからん!」と一喝したそうです。この僧侶は、正直で、親切な人だと思います。何の根拠もないのに、「大丈夫!」というのは嘘つきであり、不親切です。時々、どんなに具合が悪くても、「大丈夫ですよ」としか言ってくれない医者がいます。そんなことで医者が務まるなら、私でもできそうです。
聖書の神は、「罪があっても大丈夫!」とは言いません。はっきりと、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6章23節)と語ります。しかし同時に、本当の救いの道を語られます。「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6章23節)。
そして、神が下さる救いは「契約」なのです。契約は一度結ばれたら、解約の条件を満たさない限り決して反故にされることはありません。神が私たちと結ばれる契約は、無条件の契約です。私たちがどんなに大きな失敗をしても、繰り返し罪を犯したとしても、そのことで契約が打ち切られることはないのです。何と素晴らしいことでしょうか。
神と絶対に切られない関係にある人は、もはや劣等感に悩まされることはありません。むしろ、劣等感の方が逃げていきます。神の愛は絶対に変わらないからです。神の愛は変わらないので、その愛で自分を愛し、自分をあるがままで受け入れますので、自分に不満を抱いたり、まして劣等感を感じたりすることはありません。そのように、心に平安があり、喜びがあり、幸せがある人は、人にも平安を与え、喜びを与え、幸せを与えるようになります。
日本に神の愛が必要です。私は、遼太君が殺害された現場に行って、日本人に神の愛を伝え、神の愛で抱きしめ、救いを受け取ってもらいたい、そのために私の人生のすべてを捧げたい、そう決断しながら帰ってきました。神の愛は、人を生まれ変わらせます。
今日も、この神の愛の中で憩い、神と絶対に切られることのない親子の関係を満喫しながら、充実した一日を過ごして下さい。
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菅野直基(かんの・なおき)
1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッション等、地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での讃美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式等、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。
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