強い、弱い
「あの人は強い人だ」「私は弱い人だから」と、人や自分を評価する言葉として「強さ」「弱さ」がしばしば用いられます。
先日、一人の青年が「自分の弱さを受け入れるのが怖いのです」「自分の弱さを受け入れると自分がどうなってしまうか不安で仕方がありません」と訴えてきました。青年と話を続けていくうちに、「自分の弱さは悪いもの」「弱さは男らしくないもの」、そして「強くありなさい」ということばかり聞かされてきたと言うのです。弱さを受け入れようとすると、「あなたは人生の敗北者であるという言葉が心の内から聞こえて辛いのです」と言います。
この青年の心では、「強くありたい自分」と「弱さを受け入れたい自分」の間で葛藤と不安が起こっていました。葛藤は、二つの感情が対立している姿です。
私たちはいつの間にか、強さは肯定的な言葉として、弱さは否定的な言葉として学習してきました。その成果、強い人、弱い人という二つの類型に分類する癖を持っています。この座標軸が人を判断する基準になっていることがあります。強い人と評価される人でも、ある人やある事柄に弱いことがあります。逆に、弱い人も、ある人やある事柄に強いことがあります。人には、強さだけの人も弱さだけの人も存在しません。人は誰でも、強さと弱さの両面を持っているものです。大切なことは、誰に対して、どんな状況の中で強さと弱さが生じるかについて気づくことです。また、その根がどこにあるかを知り、受容することです。
強さも弱さも反応です。私たちには、自分の弱さを隠すために様々な攻撃的行動に表れた反応の強さがあります。それに対して弱さは、自己否定的感情があるために、いつも絶望感や自信の喪失に悩み苦しみます。「やっぱり駄目だ」「何をしても駄目だ」などの反応で表れます。私たちが成長過程で否定的なメッセージを沢山受けてきたために起こる反応です。本当は、受け入れてほしいのです。
多くの方々と関わる中で教えられることがあります。それは、人は真実に誠実に生きたいと願っているということです。人は、その真実や誠実な姿をどんな時に感じているのでしょうか。それは、人の弱さに触れた瞬間です。人の弱さと自分の弱さが共鳴し安心するのです。私たちが慰めの人になるために、自分の強さ弱さの反応を起こす感情に気づくことです。そして、その感情を健康的に処理し、受容することです。そこに、強い弱いという自己評価、他者評価からの解放があります。
教会生活においても強い人、弱い人の理解と評価が持ち込まれます。その結果、神と人の前に強くあろうとし、立派な信仰を見せようとするのです。神は、強さも弱さも全て愛し受け入れて下さっているのです。私たちは、神と人の前に強くあろうとする必要はありません。人は皆、弱いのです。強がっているだけです。それに気づきが起こったら、神の恵みに預かって生きれば良いのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)
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渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。