前回は、実在論的な世界観を信奉するアインシュタインと反実在論的な世界観に立つボーアの間で行われた「量子力学の正統的解釈」をめぐる論争で、アインシュタインが敗北したことをお話ししました。この論争を契機として、量子力学と情報工学を結び付けて、量子コンピュータなどの最先端技術を開発する「量子情報工学」が生み出されました。
今回は、量子コンピュータの研究者には、実在論に固執して作られた「多世界解釈」――ミクロ粒子を観測すると世界が多くの異なる世界に枝分かれすると考える奇想天外な説――の信奉者が意外と多いことを紹介します。
【今回のワンポイントメッセージ】
- 今なお世界観の違いから解釈が対立している量子力学は、ミクロ世界の究極の実体を捉えているとはいえない。
量子コンピュータ――驚異の最先端技術
現在、世界中で研究開発競争が盛んに行われている量子コンピュータによれば、例えばスーパーコンピュータで解くと15万年もかかるような問題(300桁の数を素因数に分解する問題)が1秒以内に解けると推察されています。なぜこのような超高性能が得られるのでしょうか。
人間や通常のコンピュータでは、そろばんや電子回路などを“計算道具”として用い、これらを古典論(量子力学以前の物理理論)に従って操作して計算します。
量子コンピュータでは、複数のミクロ粒子を「量子もつれ」(第3回)状態にした「ミクロ粒子系」を“計算道具”に用い、これを量子力学に基づいて操作して計算します。そして、量子力学に特有の「重ね合わせの原理」に基づいて多数のデータを一括して“重ね合わせて”ミクロ粒子系に入力し、各データに関する計算を同時に並行して行います。
量子コンピュータは、たった一つの「ミクロ粒子系」しか用いないので、多数の計算機を連結して高性能化を図る既存のスーパーコンピュータをはるかにしのぐ驚異的な大容量・高速特性が得られるのです。
量子コンピュータを生み出した“多世界解釈”
量子コンピュータの原理は、1985年にデイビット・ドイッチェによって考え出されました。ドイッチェは量子力学の正統的解釈(ミクロ粒子は観測するまでは実在しないと想定する反実在論的な解釈)に反対して提起された実在論的な「多世界解釈」から量子コンピュータを発想しました。
多世界解釈によれば、ミクロ粒子を観測した瞬間に、世界が多くの世界に枝分かれします。まことに奇妙奇天烈な解釈です。しかし、これによれば形式的ですが、実在論の要求を満たして粒子・波動の二重性(第2回)を説明することができます(詳細は拙著の紹介サイトを開き、「量子力学の多世界解釈」をご覧ください)。
ドイッチェは、観測によって分かれた多世界のそれぞれの世界で何が起きているかを考えているうちに、ミクロ粒子がそれぞれの世界で分担して同時並行計算する量子コンピュータを発想した、と伝えられています。
実証不可能な多世界解釈
多世界解釈では、観測によって分岐した一つの世界に存在している観測者は、別の世界と連絡したり、その世界を訪れたりすることは一切できないとされています。それゆえ多世界が存在することを観測や実験によって示すことができません。
このように実証不可能な多世界の存在を仮定する多世界解釈に対して、大部分の科学者はSFめいた奇説として冷ややかに見ています。
ところが、実在論的な世界観を信奉する科学者の中には、反実在論に根差した正統的解釈の欠点を克服できる唯一の手段として多世界解釈を支持する者が、意外と多いのです。特に量子コンピュータの開発者は、量子コンピュータの動作原理を探究するとき、多くの世界で並行して計算が行われていると考えることによって効率よく考察できる、と述べています。
量子力学はミクロ世界の実体を捉えていない?!
量子力学の多世界解釈でも正統的解釈でも、同じ数式(シュレーディンガー方程式)を用いて現象を解析します。従ってどちらも同じ予測結果を与えるので、実験または観測によって、いずれが正しいかを判定できません。それ故、多世界解釈をとるか正統的解釈をとるかは、経験(実験、観測)を土台として判断する科学の問題ではなく、経験を超越した議論を展開する哲学の課題になります。
あくまでも実在論に立つ多世界論者は、多世界の存在を信じ、それぞれの世界でミクロ粒子が普通の粒子のように実在していると考えます。しかし、多世界の存在を証明することができません。また、なぜ観測によって多世界に分岐するのかその理由を説明できません。
正統派は、反実在論的な世界観に基づいて、ミクロ粒子を観測すると波動状態が粒子状態に収縮すると考えます。しかしそのメカニズムを説明できません。
このように、ミクロ世界の実体をどうとらえるかは世界観によって分かれ、それぞれ説明できない謎を抱えています。それゆえ量子力学は、実用上は大いなる有効性を発揮していますが、ミクロ世界の本当の姿、すなわち究極の実体(リアリティー)を捉えているとはいえないのです。
【まとめ】
- 量子力学の原理を応用して驚異的な高性能を発揮する量子コンピュータが、量子力学の多世界解釈から発想された。
- 多世界解釈は、ミクロ粒子を観測した瞬間にこの世界が多世界(その存在は証明できない)に枝分かれすると想定する奇説。しかし実在論を信奉する科学者(特に量子コンピュータの研究者)には、支持者が意外と多い。
- 世界観の違いから解釈が対立している量子力学は、ミクロ世界の究極の実体(リアリティー)を捉えているとはいえない。
【次回】
- 次回から、宇宙論、すなわちビッグバン理論およびビッグバン以前の宇宙開闢(かいびゃく)を論じるインフレーション理論を扱います。
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