前回(第8回)、インフレーション理論が「偶然一致性問題」――この宇宙の真空のエネルギー密度が奇跡的に120桁もの高い精度で現在の値にファインチューニングされているという謎――を抱えていることをお話ししました。これを解決できるという理由で、奇想天外な多宇宙論を支持する科学者が存在します。
今回は、多宇宙論を支持する科学者が偶然一致性問題を解決するために考え出した「人間原理」について説明します。
【今回のワンポイントメッセージ】
- 人間原理とは、宇宙がファインチューニングされている理由を、創造主ではなく人間が存在することのうちに求める“科学の基準を逸脱した議論”。
宇宙の微調整(ファインチューニング)
インフレーション・ビッグバン理論によれば、120桁もの高精度で微調整されていると考えられている現在の真空のエネルギー(暗黒エネルギー)密度がごくわずかでもずれていたら、人間が誕生する可能性がありませんでした。もし1桁大きかったら(小さかったら)、宇宙は今より以前に膨張(収縮)しきってしまい、地球が誕生して生物が生まれるために必要な時間がなかったことになるからです。
さらに、物理定数(万有引力定数など)および素粒子間に働く相互作用の強さが“偶然”現在のような値にぴったりと微調整されていなかったら、元素が合成され星や銀河が誕生して人間が出現することが不可能でした。たとえば、中性子の質量が700分の1大きかったら、太陽などの恒星内の核融合反応が停止して死の世界になります。
宇宙を支配している物理法則は、人間が生まれるために必要な厳しい条件を奇跡的に満たしているのです。それゆえ、この宇宙は創造主によって超自然的にデザインされ、人間を生み出すためにファインチューニングされている、という考えが自然に浮かんできます。
人間原理とは
しかし、それでは“神ぬき”で自然を合理的に理解しようとする自然科学の原則から外れてしまいます。そこで、多宇宙論を支持する学者の間で「人間原理」と呼ばれる次のような考え方が広まりました。
- 宇宙は無数に存在し、それぞれの宇宙は異なる物理法則で支配されている。その中で、人間が誕生するような条件が整った宇宙だけが人間によって認識される。それ以外の宇宙は存在していても、人間が出現しないから認識されない。
- 従って、人間によって認識されている宇宙は、あたかも人間を生み出す目的に沿ってデザインされているように映る。
つまり人間原理では、宇宙が奇跡的にファインチューニングされている理由を、創造主ではなく人間が宇宙に存在していることのうちに求めるのです。ホーキング(第6回)は、人間原理では創造主がわれわれ人間に置き換えられていることを次のように述べています。
「私たちの今住んでいる宇宙は、無数に存在する宇宙のなかでも私たちの存在を偶然許すような宇宙ということになります。言うなれば、私たちの存在がこの宇宙を選択したのです。・・・このように考えると、ある意味で創造の主は私たち自身なのだと言うこともできるのです」[S・ホーキング、L・ムロディナウ著『ホーキング、宇宙と人間を語る』佐藤勝彦翻訳、エクスナレッジ(2011年)17頁]
人間原理に対する批判
しかし人間原理は、宇宙が人間のためにファインチューニングされている(ように見える)理由を創造主の代わりに人間に求める形而上学(哲学や宗教の類の学問)であり、科学ではないと切り捨てる学者が多数います。
さらに人間原理とは、宇宙で人間が誕生したのは、宇宙が人間の誕生に必要な条件を満たしていたからだというごく当たり前のことを述べているに過ぎないと批判されています。
また、「人間原理を受け入れることは、科学的探究をやめてしまうことだ。科学者たるものはあくまでも究極の理論を探すべきだ」と主張する科学者も大勢います。
ファインチューニングの謎を解く「究極の理論」とは?
では、宇宙のファインチューニングを説明できる「究極の理論」に達することができるのでしょうか。
現在、素粒子物理学では、素粒子物理学と重力理論を統合して、「万物の理論」または「超大統一理論」と呼ばれる究極の理論を構築することが目標とされています。しかし、完成の見通しは全く立っていません。
万物の理論の候補として「超ひも理論」(超弦理論)といわれる理論が作られています。超ひも理論では、これまでは点のイメージで捉えられていた素粒子を、一次元の非常に小さな「ひも」であると想定します。何とも奇妙な理論です。はたして超ひも理論は万物の理論になり得るのでしょうか。
実は、超ひも理論の方程式から、なんと10の500乗、すなわち500桁にもおよぶ多宇宙の解が得られたのです。しかも、その宇宙ごとに物理法則と物理定数が異なっているのです。これでは、私たちの宇宙に存在している素粒子の起源を解明する究極の理論にはなり得ません。
ところが、500桁もの宇宙があることを逆手にとって、人間原理を支持する論拠とされるようになりました。すなわち、このように無限に近い多数の宇宙が存在すれば、その中に必ず現在の観測値と一致する真空のエネルギー(暗黒エネルギー)を持った宇宙が存在する。そこに人間が生まれ、宇宙を認識しているのであると。
人間原理によらないで宇宙のファインチューニングを説明してくれる万物の理論の候補として期待されていた超ひも理論が、今や人間原理を支持する論拠とされているのです。
【まとめ】
- 人間原理は、「この宇宙が人間の誕生に必要な条件を奇跡的に満たしている(宇宙がファインチューニングされている)のは、無数に存在する宇宙の中で人間の誕生を可能にする条件が整えられた宇宙だけで人間が生まれたからである」と説明する。
- 人間原理は、「宇宙のファインチューニング」の原因を創造主の代わりに人間に求める形而上学であり、科学ではないと厳しく批判されている。
- 人間原理によらずに「宇宙のファインチューニング」を説明できる究極の理論の候補として超ひも理論が期待されたが、逆に人間原理を支持する論拠とされるようになった。
【次回以降】
- 世界のすべての現象の未来がニュートン力学によって決定されていると考える決定論的な自然観が生まれ、カオス理論などによって20世紀の後半に崩壊したことを説明します。
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