前回、ガリレイが、地動説を受け入れていたイエズス会士を愚弄し、敵に回したために異端審問(宗教裁判)の憂き目にあったことをお話ししました。
今回は、ガリレイの傲慢ゆえに引き起こされた騒動を教皇が収めようとしていたのに、世間知らずのガリレイがそれを理解できなかったために地動説を誓絶させられたことを説明します。
【今回のワンポイントメッセージ】
- ガリレイはカトリック教会と戦ったのではない。新教徒のケプラーが地動説を発展させていたので、カトリックの学問がプロテスタントに遅れを取らないように地動説を唱えたが、権威と慣行を無視したために屈服させられた。
ガリレイを支持していた教皇
2回のガリレイ裁判(1616年と1633年)をそれぞれ行った教皇、パウルス5世とウルバヌス8世はいずれもガリレイを支持していました。
ただし彼らは、当時のカトリック教会の公式な神学に従い、地動説を数学的な仮説として論じるのは構わないが、その通りに天体が動くと想定してはならないと考えていました。そして、この神学的な枠組みの中でカトリック教会の秩序を保とうとしていました。
従って、カトリックの神学を変えて科学を改革しようとしてガリレイが引き起こした騒動で一番面食らったのは、この2人の教皇だったのです。
第1次裁判―ガリレイは無罪放免された
反ガリレイ勢力は教皇パウルス5世に圧力をかけ、ガリレイは異端審問に召喚されました。
バチカンの公式の裁判記録には、ガリレイは裁判の責任者であったベラルミーノ枢機卿に呼ばれ、「地動説を放棄し、今後それを教えたり弁護したりしない」という誓約をさせられた、と記されています。
しかし、歴史家によって、この裁判記録は次の裁判でガリレイを有罪にするために偽造された疑いが濃厚、とされています。記録文書に出席者の署名がないことなどによります。
ガリレイは、裁判の直後に自分が地動説を放棄するよう誓約させられたといううわさが広まっているのに驚き、ベラルミーノ枢機卿から証明書をもらいました。そこには、ガリレイは何も放棄するよう誓約させられたことはなく、ただ禁書目録聖省(教皇庁の検閲機関)の公告に「コペルニクスの地動説が聖書に反するから信奉したり弁護してはいけない」と宣言されていることを知らされただけである旨が書かれ、ベラルミーノの署名がされていました。
この裁判の直後に禁書目録聖省は、コペルニクスの『天球の回転について』を禁書目録に載せましたが、実際には、カトリックの神学に合うように数カ所の字句の修正がなされるまで発行停止とされただけです。地動説そのものは断罪されず、その通りに天体が運行していると考える解釈が異端として退けられたのです。
以上のように、第一次裁判では、ガリレイは断罪されず訓戒だけが与えられ、地動説そのものも異端とはされませんでした。
異端の疑いで異端審問所に呼び出されるだけでも、カトリック教徒にとっては大変な社会的不名誉でした。そのような屈辱をガリレイに与えることによって、教皇は反対派を満足させようとしたのです。
裁判の直後に、教皇パウルス5世はガリレイとの謁見を許しました。そして、「自分および異端審問所の全員がガリレイを非常に尊敬している。それゆえ、反対派の中傷に耳を傾けるはずがないから、心配にはおよばない」と述べて、ガリレイを激励しました。
第2次裁判―反ガリレイ派の画策
この後、ガリレイを支持していた枢機卿が選出されて教皇ウルバヌス8世となりました。大いに喜んだガリレイは、天動説の背後にあったアリストテレス主義(前回)を挑戦的、徹底的に論破した著書を書き上げて新教皇に献呈しました。
ガリレイと謁見したウルバヌス8世は、この本を大いに賞賛し、神学に触れないで、さらに地動説を発展させることによって神の栄光を明らかにしてほしい、と述べて褒美を与えました。
ウルバヌス8世からの賞賛と激励にすっかり気を良くしたガリレイは、『天文対話』を書き上げました。前回説明したように、この書物でガリレイは、カトリック神学に合うように地動説は数学的仮定として提示し、最後に天動説こそ真の理論であると主張する隠れみのをかぶせていました。
ところがイエズス会士たちは、ガリレイをルターやカルヴァン以上に、民衆を扇動してローマカトリック教会の伝統と秩序を破壊する危険分子として教皇に訴えました。そして、このような混乱の火もとはガリレイを支援していたウルバヌス8世にあると非難し、ガリレイの断罪を要求しました。
この要求には、何よりも権威を重んじるカトリック教会の長である教皇は無視するわけにはいきません。ガリレイは、再び異端審問に召喚されました。
談合に応じたガリレイ
ガリレイは、「地動説を捨て、それを教えたり弁護したりしない」と第一次裁判の時に行った誓約に違反した罪で告発されました。
これに対してガリレイは、「自分は一度もコペルニクスの地動説を信じたことも弁護したこともない。『天文対話』では地動説の不完全さを示して、これに反対している。現に検閲もパスしている」と釈明しました。さらにガリレイは、第一次裁判で何も誓約させられなかったことを証明するとベラルミーノが書いた証明書を提出しました。ガリレイは、勝訴できる自信を持っていました。
しかし、異端審問は、無罪か有罪かを判定する場ではありません。異端の疑いで召喚された人間が、罪を告白することによって救いを得る場なのです。それゆえ無罪を主張すること自体が不服従の罪とされました。
すべてを見通していた異端審問官は、ガリレイ派の修道士を遣わして説得しました。このまま無罪を主張し続ければ、本格的な裁判になり、生涯牢獄に禁固されてしまう。ここで過ちを認めて悔い改めれば、形式的な罰で済ませるから、そうするように勧めました。そして告白すべき罪を考えるように要求しました。
ガリレイは、ここで初めて、科学的な真理が問題なのではなく、権威や秩序が問題であり、自分がそれを乱したために窮地に陥ったことを悟りました。そしてこの談合を受け入れました。
ガリレイは、要約すれば次のような「告白すべき罪」を考え出しました。
「自分が『天文対話』で、偽りの理論である地動説を論破しようとしたときに、それが正しいと読者に確信させてしまうような書き方をしてしまいました。それは、誤った理論でも、それを人々に信じ込ませるほど巧みに論じることができるという、自分の力量を示したいとの『むなしい野心』に負けたからです」
さらに彼は、『天文対話』に1、2章を追加してコペルニクスを論破すると提案しました。また、70才という高齢を配慮しての慈悲を嘆願しました。
こうしてガリレイは、形式的には終身禁固刑を宣告され、地動説を誓絶する文書に署名させられました。しかし、直ちに減刑されてトスカナ大公国大使館の豪華な部屋に戻され、その後、シエナにあった大司教の大邸宅で賓客として5カ月を過ごしました。その後は自宅と別荘で2人の助手付きで、心おきなく残りの生涯で運動力学の研究に没頭しました。そして、ニュートンの大著『プリンキピア』に先立って近代力学を切り開いたといわれる名著『新科学対話』を著したのです。
くつがえされた英雄像
「地動説を認めないカトリック教会と戦った英雄的科学者」という通俗的なガリレイ像は、まったく真実からほど遠いのです。
ガリレイは生涯忠実なカトリック教徒であり、教会の神学と慣行には形式的(隠れみの)でしたが従い続けました。教会と戦ったのではなく、教会の学問のために戦ったのです。ガリレイは、当時ドイツでケプラーのような新教徒が地動説を発展させているので、このままではカトリックの学問がプロテスタントに遅れをとってしまうと危惧して『天文対話』を著した、と同書の序文に記しています。
ただし、高慢な態度で論敵を愚弄し、真理よりも権威が問題であったことを理解できなかったために、地動説を誓絶せざるを得ない状況に追いやられたのです。
ガリレイ裁判を科学とキリスト教の闘争とみなしたのは、反宗教的な感情を抱いていた18世紀の啓蒙主義者でした。彼らによって、科学は宗教と対立するという固定概念が生み出されました。さらに、ガリレイを、科学を否定する迷妄な宗教家の迫害に耐えて地動説を唱えた英雄、そして宗教的権力によって屈服させられた悲劇の受難者とするイメージが作られ、今日に至っているのです。
「それでも地球は動いている」とつぶやいたと伝えられている話は、ガリレイを英雄視した18世紀の人々の願望によって作られたと科学史家が論考しています。(田中一郎著『ガリレオ裁判―400年後の真実』岩波新書[2015年]205頁)
【まとめ】
- ガリレイ裁判を命じた2人の教皇は、ガリレイを支持していたが、反ガリレイ勢力に突き上げられて異端審問を行った。
- 裁判の問題は、科学的真理ではなく権威にあることを知らされたガリレイは、談合に応じ、罪を告白して形式的処罰(地動説を誓絶した直後に減刑)で済まされた。
- ガリレイ裁判に関する啓蒙思想家の解釈によって、科学と宗教は対立するという固定概念およびガリレイを英雄視するイメージ像が作られ、今日に及んでいる。
【次回】
- ガリレイは、近代科学の父とあがめられているけれども、世界観は古代ギリシャ思想の名残を留めていたために、誤った論拠で地動説を支持したことを説明します。
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