前回は、ケプラーが神秘主義者でありながら近代科学の精神を持ち合わせており、惑星の楕円軌道を発見したことを説明しました。
今回から、近代科学の父といわれるガリレオ・ガリレイ(1564~1642)を取り上げます。ガリレイを、教会の迫害にめげずに地動説を広めた「不屈の英雄」、宗教的権力に屈服させられた「真理の殉教者」と見なす常識的な見解は覆(くつがえ)されています。
ガリレイ裁判は「宗教と科学の対立」ではなく、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義に基づく古い学問と、それを超克する近代的な学問の対立でしたが、複雑な人間関係と政治的対立が絡んでいたのです。
今回は、ガリレイが、地動説を受け入れていたイエズス会士を愚弄(ぐろう)し敵に回したたために糾弾されたいきさつを明らかにします。
【今回のワンポイントメッセージ】
- 傲慢(ごうまん)なガリレイが引き起こした騒動によって、カトリック教会に新しい学問を取り入れようとする動きが妨げられ、地動説の公認の時期が遅らされた。
ガリレイ裁判の本質は「新・旧」学問の対立
ガリレイ裁判を宗教と科学の争いと考える一般的な見解は、科学史の分野では払拭(ふっしょく)されています。すでに数年以上前の高校の教科書に次のように記されています。
「今日では、ガリレイの宗教裁判は、宗教と科学の対立というよりは、宗教的、政治的対立にまきこまれて生じた事件という色彩が濃いと考えられている」[文献(1)]
ガリレイ裁判の本質は、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義(古代ギリシャの哲学者アリストテレスの哲学を発展させた思想)に基づいた学問と、それを乗り越えようとしてガリレイが唱えた近代的な学問の対立です。そこに、カトリック教会内部の宗教的な対立に、政治的な対立(ガリレイを支援したメディチ家の背後のドイツと教皇側のフランスの争い)が複雑に絡んでいました。
『天文対話』(1630年出版)における形式的服従の隠れみの
第17回でも説明したように、カトリック教会は、“仮説”として提示するならばどんな理論の研究をも許してきました。ただし、どんなに優れた理論であっても、自然が実際にその理論の通りになっていると考えてはいけないとされていました。全能の神は人間の理性が考え出すことができないような方法で自然を支配していると考えられていたからです。
ガリレイが地動説を唱えた著書『天文対話』も、このしきたりに従っていました。序文には地動説を数学的仮説として提示すると明言され、本文の最後は次のような趣旨で締めくくられていました。
「全能の神は、人間の理性では説明できない仕方で自然を支配できる。それゆえ、人間の考えの枠(つまり地動説)の中に神の知恵を押し込めてはならない」
この結論は、ガリレイの地動説をほめて激励してくれた教皇(ウルバヌス8世)から彼に与えられた訓戒に基づいています。『天文対話』には、このような隠れみのがかぶされていたので、文句のつけようがありません。
イエズス会士を敵に回したガリレイ
ところが、ガリレイは、イエズス会を中心とする反対派の策動によって、異端審問(宗教裁判)にかけられ、地動説を放棄させられました。
なぜガリレイは糾弾されたのでしょうか。
それは、高慢で世慣れないガリレイが、彼を支持して地動説を受け入れたイエズス会士たちを敵に回してしまったからなのです。以下、科学史家モルデカイ・ファインゴールドの論文[文献(2)]に準拠して説明します。
ガリレイは1610年に処女作『星界の報告』を出版して、望遠鏡で観測した「月面が凹凸だらけの様子」および「木星が四つの惑星を持つこと」を発表して地動説を支持しました(図1)。『星界の報告』は大評判となり、ガリレイは一躍時代の寵児(ちょうじ)になりました。
イエズス会士たちは、最初は疑っていました。しかし、望遠鏡を空に向けた結果、多くのイエズス会士たちがガリレイの主張を認め、地動説を受け入れました。1611年5月にガリレイはローマ学院(イエズス会の司祭養成学校)に招かれ、イエズス会士たちから大歓迎を受け、ほめそやされました。
ところが、その後ガリレイは、2人のイエズス会士(シャイナー神父、グラッシ神父、図2)と、そのころ発見された太陽の黒点および彗星(すいせい)をめぐって激しく対立して論争を引き起こしました。ガリレイは、敵愾心(てきがいしん)をむき出しにして傲慢な態度で論敵を罵倒してばか者呼ばわりしました。
ガリレイに愚弄されたイエズス会士たちは、アリストテレス主義を固守する保守的な上層部の命令に服従し、あえてガリレイを糾弾する運動に加わりました。彼らは、アリストテレス主義を奉じていた哲学者および保守的なドミニコ会士たちと手を結んでガリレイ排斥を画策しました。当時、イエズス会とドミニコ会は抗争していたのに、反ガリレイで結託したのです。
地動説の公認を遅らせて科学に迷惑をかけたガリレイ
天文学者であり数学者でもあったイエズス会のグリーンベルガー神父は、グラッシ神父と共にガリレイとの和解の道を探りました。しかし、ガリレイによって拒否されたのです。グリーンベルガーは次のように述べました。
「もし、ガリレイが、ローマ学院の神父たちの支持を得るすべさえ知っていたら、彼は相変わらず世間的な名声をほしいままにして、あのような不幸に陥ることなく、地動説でも何でも思いのままに書けただろうに」
グリーンベルガーは、生涯にわたって、頑迷な人々を説得してカトリック教会に「新しい科学」を取り入れようと計り、地動説を公認する道を開くための準備を進めていました。ところが、ガリレイの無礼な振る舞いによって、その努力が水泡に帰してしまったと嘆いたのです。
ローマ学院では、近代的な科学の研究がなされていました(例えば、グラッシは光学の分野で優れた業績を上げていました)。ところが、ガリレイとの闘争を目にしたイエズス会の保守的な上層部は、科学に関する研究を一切禁止しました(1651年)。その理由は、「新しい科学」が誤っているからではなく、教会の公式な学問であるアリストテレス主義を破壊する恐れがあるからでした。
この禁止令によって、ローマ学院での科学研究がほぼ100年間も停滞したとファインゴールドが指摘しています[文献(2)153ページ]。
カトリック教会では、新しい科学理論はまず仮説として提示され、機が熟したころに公認する慣わしでした。進歩的なイエズス会士たちは、地動説を伝統に従ってゆっくりと、権威をもって受け入れるシナリオを描いていました。それが、ガリレイ騒動によって妨げられ、地動説を公認する時期が遅らされたのです。
《文献》
(1)高校教科書『倫理』、東京書籍(2007年検定済み、2008年発行)129ページ。
(2)“The grounds for conflict: Grienberger, Grassi, Galileo, and Posterity”, Mordechai Feingold, The New Science and Jesuit Science: Seventeenth Century Perspectives, ed. M. Feingold, Kluwer, Academic Publishers, (2003), pp121―157.
(3)『ガリレオ裁判』J・サンティリャーナ著(武谷三男監修、一瀬幸雄訳)、岩波書店(1973年)372ページ。
【まとめ】
- ガリレイ裁判は、「宗教と科学の対立」ではなく、カトリック教会が取り入れていたアリストテレス主義に基づく古い学問と、それを超克する近代的な学問の対立であった。
- ガリレイの地動説はイエズス会士たちによって受け入れられたが、ガリレイが傲慢な態度で論敵を馬鹿にしたために糾弾され、異端審問の憂き目にあった。
- ガリレイの暴挙によって、イエズス会士たちの科学研究が禁止されると共にカトリック教会が地動説を公認する動きが妨げられた。
【次回】
- 傲慢で世間知らずであったためにガリレイが、異端審問で地動説を誓絶させられたいきさつを説明します。
※2019年8月28日に内容を一部修正しました。
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