いかなるときも心の備えは大切である。災害に遭ったときの心備え、職を失ったときの心備え、病気になったときの心備えなど、さまざまな心備えがある。私は極貧の家に生まれ育ったので、貧しさの心備えは小さいときからできている。その癖が今でも残っていて、新しい洋服や新しい靴などを買うことを思いつかない。家内が無理やりに私を店に連れて行き、有無を言わさずサイズに合ったものを購入させるのが常だ。
ある貧しいクリスチャンの家庭を12月31日に訪問したとき、奥様が「この1年、私たち家族が食事を抜くことがなかったことが一番の感謝です」と話していた。その家庭には何のぜいたく品もなく、貧しさへの心備えが最重要課題であった。私の場合もその家庭の場合も、貧しさへの心備えが必要だったのは、豊かになることに罪悪感を覚えたからではなく、本当に貧しかったからである。
でも、「富=罪」と感じている人たちは、あえて質素で貧しい暮らしを選ぶので、当然のことながら貧しさの心備えが必要になる。「清く貧しく美しく」をモットーにしている人たちが大勢いる。アメリカのペンシルバニア州に住むアーミッシュの人たちは、今でも文明を拒絶し、あえて貧しい生活を選んで生きている。彼らは、貧しさへの心備えが徹底している。
でも実は、われわれに必要な心備えがもう一つある。それは豊かさへの心備えだ。使徒パウロはピリピ4:12で、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と言っている。
われわれのうちどれだけの人が、豊かさへの心備えができているだろうか。清く貧しく美しく生きようとする人は、おそらく豊かさへの心備えはないだろうし、そうする必要も感じていないだろう。でも、信仰の基準となる聖書そのものが、富むことにも乏しいことにも対処できることの大切さを教えているのだ。聖書的に言うと「清く豊かに美しく」生きるのもわれわれのオプションである。
聖書の中に出てくる人物で、豊かさの心備えができていなかった人たちが大勢いる。貧しい人に自分の財産を施すことのできなかった青年がその一例である。でも、豊かさの心備えができていた人たちも大勢いる。盗賊に襲われた人を助けた善きサマリア人は、その一人である。また、アリマタヤのヨセフは、イエスが十字架刑に処せられたときに、その遺体を引き取って真新しい墓に収めた。彼らは豊かさの心備えができていた金持ちだった。
パウロは、貧しい人は貧しさの備えをし、金持ちの人は富むことの心備えをすることが必要であるとは言っていない。同一人物が、富んでいるときも貧しくなったときもどちらにも対応できる心得えが必要であることを訴えているのだ。二つの心備えができていた人物は、大金持ちでありながら全財産を失ったあのヨブである。「主は与え、主は取られる」(ヨブ記1:21)という信仰こそが、われわれに二つの心備えを可能にさせるものである。
◇
木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。