
イースター(復活祭)翌日の21日に88歳で死去したローマ教皇フランシスコの葬儀ミサが26日、バチカン(教皇庁)のサンピエトロ広場で行われた。約160の国・地域や機関の代表者らが出席し、広場やその周辺に集まった参列者は約25万人に上った。
ジョバンニ・バッティスタ・レ首席枢機卿が主司式
葬儀ミサは、現地時間26日午前10時(日本時間同日午後5時)から約3時間にわたって行われ、枢機卿団のジョバンニ・バッティスタ・レ首席枢機卿が主司式を務めた。
教皇のひつぎはこの日の朝までサンピエトロ大聖堂内に安置されており、葬儀ミサ開始前にサンピエトロ広場に移動。歴代教皇のひつぎは糸杉と鉛とオーク材でできた三重造りだが、教皇フランシスコのひつぎは遺言に従い簡素な木製で、祭壇前に置かれると、開いた大きな聖書が載せられた。
バチカン・ニュース(日本語版)によると、葬儀ミサはラテン語で行われた。システィーナ礼拝堂聖歌隊による美しい合唱で始まり、レ枢機卿による説教、感謝の祭儀、告別の義、諸聖人の連祷、東方典礼カトリック教会の総大司教や首都大司教らによる祈りなどが続き、最後にはレ枢機卿が教皇のひつぎに灌水(かんすい)と献香を行い、告別の祈りをささげた。
「壁ではなく、橋を築く」ことを励まし続けた

レ枢機卿は説教で、教皇の司牧者としての姿と、その在位中の奉仕が教会と世界に与えた影響を回顧。「教会が全ての人のための家だという確信」が、教皇の宣教を導いた一本の糸だったとし、戦争後の「野戦病院」を教会のイメージとして用いたことに触れた。
また、47回にわたった海外司牧訪問にも言及。2021年にテロの脅威も懸念される中で行われたイラク訪問は、新型コロナウイルスの世界的感染拡大以降初の訪問であるとともに、歴代教皇としても初の訪問で、レ枢機卿は特に記憶に残るものとして挙げた。教皇の訪問は、過激派組織「イスラム国」(IS)の非人道的な行為によって苦しむイラク国民の「開かれた傷に塗られた香油」だったとし、宗教間対話にとっても重要だったとした。
レ枢機卿はまた、福音の「いつくしみ」と「喜び」が、教皇の2つのキーワードだったと指摘。兄弟愛と社会的友愛をテーマにした回勅『フラテッリ・トゥッティ(邦題:兄弟の皆さん)』(20年)や、環境問題を扱った回勅『ラウダート・シ』(15年)など、教皇が在任中に発表した回勅や、調印した共同宣言に触れた。
教皇はまた、平和の実現を願い、理性と誠実な交渉へと人々を招くために絶えず声を上げ、「戦争は全ての人にとって常に苦しみと悲惨を伴う敗北」だと警告してきたと回顧。「壁を作るのではなく、橋を架けること」を何度も呼びかけてきたとし、信仰への奉仕を、常にあらゆる面で人類への奉仕に結び付けていたと述べた。
弔問外交の場に、米ウクライナ大統領が会談

葬儀ミサには、米国のドナルド・トランプ大統領やウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領をはじめ、約130カ国を代表する元首、首脳、王室メンバー、政府関係者らが出席し、いわゆる弔問外交の場にもなった。
トランプ、ゼレンスキーの両氏は葬儀ミサの前、サンピエトロ大聖堂で約15分にわたり会談。両者が直接合って話すのは、ウクライナでの戦争を巡って口論となり、決裂した2月末の米首都ワシントンでの会談以来で、両者とも会談後には非常に肯定的なコメントを出した。
日本からは岩屋毅外相が出席し、外務省の発表によると、ブラジルのルーラ・ダシルバ大統領やホンジュラスのシオマラ・カストロ大統領、ルクセンブルクのリュック・フリーデン首相、国連のアントニオ・グテーレス事務総長、欧州理事会のアントニオ・コスタ議長のほか、ウクライナ、フランス、イタリア各国の外相らと短い懇談の時を持った。
ローマ中心部の大聖堂に埋葬

教皇のひつぎは葬儀ミサの後、一度、サンピエトロ大聖堂に戻され、その後、ローマ中心部のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に移され、埋葬された。歴代教皇の遺体はサンピエトロ大聖堂に埋葬されており、これも教皇フランシスコの遺言による。サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は、海外司牧訪問の前後などに教皇が度々訪れ祈りをささげていた場所で、3月末に退院した際にも立ち寄っていた。
教皇フランシスコの略歴、死因、遺言
教皇フランシスコは1936年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、イタリア系移民の子として生まれた。本名は、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。21歳でイエズス会に入会し、ブエノスアイレス大司教、枢機卿などを経て、前任のローマ教皇ベネディクト16世の退位後、2013年に中南米出身初の教皇として就任した。
肺炎などのために2月中旬から40日近く入院し、一時は「重い容体」とされたが、3月末に退院。復活祭の20日には、サンピエトロ大聖堂のバルコニーから姿を見せ、伝統的な祝福「ウルビ・エト・オルビ(ローマと世界へ)」を送っていたほか、バチカンを訪れていた米国のJ・D・バンス副大統領とも短い会談を行うなどしていた。

教皇庁広報部の発表によると、教皇は現地時間21日午前7時35分(日本時間同日午後2時35分)、住居としていたバチカンのゲストハウス「聖マルタの家」の居室で死去した。死因は、脳卒中、昏睡、不可逆性心血管虚脱とされ、両側性肺炎に関連して以前に発症した急性呼吸不全、多発性気管支拡張症、動脈性高血圧、2型糖尿病の影響を受けていたという。
教皇庁広報部は21日に教皇の遺言(22年6月29日付)を発表しており、それによると、墓については「地中にしなければならない」「簡素なものとし、特別な装飾を施さず、『フランシスコ』とのみ刻む」と指定。遺言は、「私の健康を願い、私のために祈り続けてくださった人々に、主がふさわしい報いを与えてくださいますように。私の生涯の最後にあった苦しみを、世界の平和と諸国民の友愛のために、主にささげる」と結ばれている。
■ ローマ教皇フランシスコの葬儀ミサ