前回、生命体とは、外部から摂取した食物のエネルギーおよびエントロピー(無秩序の度合いを示す量)を散逸させる(外に捨てる)ことによって生命という散逸構造(動的な秩序)を創発している非平衡・開放系であることを説明しました。
今回は、生命現象をめぐる創発の概念が19世紀に提起され、機械論的な生命観との論争を経て、20世紀末に複雑系の科学によって支持されるようになった経緯を明らかにします。
【今回のワンポイントメッセージ】
- 創発論によって、生命現象には目的論的な説明が必要であることが再認識された。
19世紀に「生気論/機械論」論争から生まれた創発論
創発の概念は、決定論的な世界観(第11回)が支配していた19世紀中ごろから20世紀にかけて、人の心の働き(特に自由意思)を、物質で作られた身体の機能とどのように結び付けるかという「心身問題」に関する論争から生まれました。
近代哲学の父といわれるルネ・デカルト(17世紀)は、人間は心と身体という二つの独立した実体からなると考える「心身二元論」を提唱しました。
デカルトは、心と身体は、脳の中の松果腺と呼ぶ器官で相互作用すると唱えました。しかし、松果腺でどのような相互作用が行われているかは説明されていません。それゆえデカルトの心身二元論には、反対する人々が最初からいました。
デカルトに反対した人々の中で、生命現象も機械と同じように法則で説明できると考える機械論にも反対した人々によって生気論が主張されました。
生気論とは、生命現象には物理学と化学の法則では説明できない原理に支配された特別な力(「生気」「活力」などと呼ばれる)が働いていると仮定する説で、古代ギリシア哲学に源を発します。19世紀に生気論者と機械論者の間で白熱した論争が起こり、両者の対立を解決するために、創発が提起されたのです。
創発論の栄枯盛衰
創発の概念は、イギリスの著名な哲学者ジョン・スチュアート・ミルに始まるとされています(1843年)。しかし、創発という言葉を最初に使ったのはイギリスの哲学者ジョ-ジ・ヘンリー・ルイスです(1875年)。
ルイスは、ミルの考えを継承し、部分の総和では説明できない機能が全体に発生することを創発と呼びました。そして生気論のように特別な原理が生物に存在することを否定すると共に、生命活動を純粋な自然法則で機械的に説明することにも反対したのです。ルイスは生気論と機械論の対立を避けて、創発の概念によって心と身体の関係を論じる「心の哲学」に応用しました。
19世紀末から20世紀初頭にかけて生気論が栄え、その反動として一時的に創発論が発展しました。しかし、20世紀の後半に創発論は衰えました。それはDNAに基づく分子生物学が誕生して、分子レベルで生物や生命を機械論的に解明できると期待されたからです。
創発論の再浮上
ところが、20世紀末ごろから創発論が息を吹き返しました。複雑系の科学によって、次のような状況が訪れ、創発が支持されるようになったのです。
- 非平衡・開放系では、系の要素の振る舞いに還元できない新たな性質や秩序が創発(自己組織化)されることを示す「散逸構造」理論が作られた。
- ヒトの全遺伝子(ゲノム)の塩基配列を決定するヒトゲノム計画が2003年に完了し、ゲノムが当初考えられていたよりも大変な複雑さを持つことが明らかにされた。その結果、遺伝の法則や生命の起源などをDNAの分子レベルの働きだけからは解明できず、DNA以外の生体分子を含む複雑系で創発された現象と考えられるようになった。
- 生命現象、特に脳の活動でカオスが根源的な役割を果たすことが分かり、「カオスからの創発」が生物を理解する上で不可避であることが判明した(次回説明します)。
生命体における要素還元主義の破綻
生命体は、前回説明したように、大局的には散逸構造が創発されている非平衡・開放系です。しかし、細かく見れば、生体物質(アミノ酸など)→ 細胞 → 臓器 → 生体、というふうに次々と大きなスケールの秩序構造が自己組織化(創発)されています。
生体中で創発された上位の秩序構造の機能は、下位の構造の要素の働きに単純に還元することはできません。例えば、細胞の働きは、細胞を構成しているおのおのの生体物質の性質をいくら解明しても説明できません。また、臓器の機能は、それを構成する個々の細胞の働きを解明しても説明できません。それぞれの上位の秩序構造は、創発によって下位の要素にはなかった新たな機能を獲得し、生命活動を維持するための目的を果たしているのです。
生命体を要素に分解し、それぞれの要素の性質を解明すれば系全体の性質を要素の個別的な振る舞いに還元して説明できると考える機械論的な要素還元主義は破綻しています。
それゆえ、先ほど述べたように、ゲノム計画によってヒトの遺伝子の全貌が明らかにされても、人体で起きている生命現象を十分に理解したことにはならないのです。
生命体に関する「目的論的な説明」の復権
複雑系で秩序構造が創発されるためには、系の状態を決めるさまざまな量すなわち、エネルギーや物質の流れる速度などが特定の状態に設定されていなければなりません。例えばベナールセル(第13回)という散逸構造が創発されるには、系を流れる熱エネルギーの速度が特定の値に設定されていなければなりません。速度が大きすぎれば乱流(カオス)に、小さすぎれば静止(熱伝導)状態になります。
ところが、自然のプロセスで、系の状態が、自己組織化が起きるのに必要な状態に設定されることはありません。自己組織化する目的のために系の外部から条件をきちんと調整しなければならないのです。それゆえ、創発論によって、生きるという目的のために生物が作られていると考える目的論的な説明が復権したと、複雑系の研究者が指摘しています。
ただし、目的論的な説明のような超自然的なものを排し、すべての現象を自然法則だけで説明することを目指す自然主義者は、目的論的な説明を作業仮説として受け入れています。作業仮説とは、証明できないけれども理解を深め研究を進める上で有益な手段としてとりあえず受け入れる仮説を指します。自然主義者は、生物が生きるという目的で作られているような秩序が“目的なしに”生み出されたプロセスについて現在は説明できないけれども、やがて解明されるであろうと期待して研究を進めるのです。
【まとめ】
- 創発の概念は、「心身問題」をめぐる生気論と機械論の対立を解決するために19世紀に提起され、20世紀初めに一時発展し、その後分子生物学の誕生によって衰えた。
- ところが、創発論は20世紀の末に複雑系の科学の発達によって再浮上した。
- 創発論によって、生命現象は生体物質の振る舞いに還元できないことが明らかにされるとともに、目的論的な説明が復権した。自然主義者は目的論的な説明を作業仮説として受け入れている。
【次回】
- 生命活動の根源にはカオスが存在していることを明らかにします。
※2016年3月10日 に一部修正。
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