窓を開けると、風の匂いがもう春だ。その匂いに、私は初めて出産した頃のことを思い出し、ちょっと独特な気分になる。
1989年4月、私は、出産を目前に控えていた。初めての赤ちゃんの誕生を楽しみにしてはいたが、陣痛のことを考えると恐ろしくもあった。周囲の女性たちからは、いろいろなアドバイスが届いていた。
「あまりの痛さに、青竹でさえ割ってしまう」「障子の桟が痛みでかすんで見えなくなった頃、やっと生まれる」。母は言った。「おばあちゃんは13人も産んだよ。陣痛が始まると、薪を燃やして湯を沸かし、赤飯を窯で炊きながら、たんすの前の畳をはね上げてぼろ布を敷いて、たんすのカンにしがみついて自力で産んだ。産婆さんなんか呼ばなかった」「お産は病気じゃないんだから」
母がこんなことを言ったのは、むやみに脅すためではない。私は小さい頃から痛みに弱かった。歯医者へ行っても、私はすくみあがって痛がり、反対に妹は平気な顔をしていた。姉としての面目丸つぶれ。いまだに歯医者へ行き治療台がスーッと上がると「死刑台のエレベーター」というフレーズが頭に浮かぶ。それほど臆病者だった。
それが、その妹でさえ、陣痛には耐えかねて「帝王切開に切り替えてもらって」と母に懇願したという。あの妹でさえ耐え難い痛みなのだ、陣痛というものは・・・。恐怖は増した。
「こりゃ、あかんわ」。私は赤ちゃんに会える期待と、陣痛への恐れの両方を抱きながら「その日」を待った。
陣痛本番は、土曜夜から日曜夕方まで続いた。聞きしに勝る痛みだった。医院の部屋で痛がる私を見ていた義父が、こっそり義母に尋ねたという。「陣痛とは、あれほど痛いものなのか」。義母は答えた。「あなた、盲腸の手術したことあるでしょう? 陣痛って、あんなものじゃないのよ」。義父は恐れ入って黙り込んだ。
そして数時間後、赤ちゃんが生まれたその瞬間は、「子どもが生まれた喜び」とか「世界がバラ色に変わった」からはほど遠く、ただただ、「ああ、終わった!」という安堵に包まれたのを覚えている。
お産は人生を変える。恥ずかしいことに、陣痛の最中は、人としての体面どころか、聖書の御言葉も自分がクリスチャンであるということも吹き飛んでしまう、それほどの強烈な経験だ。それでも思い返してみれば、教会の人々や友人の祈りに支えられ、主の守りのうちにあったという、感謝を教えられた経験でもあった。
聖書の御言葉にも新しい光が当てられた。そもそも陣痛は、罪を犯した女が自ら招いた結果である、と聖書には記されてある。
「神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む』」(創世記3章16節)
なんということしてくれたのか、と私はエバを恨む。陣痛のあれほどの苦しみは、女エバが誘惑に陥って禁断の木の実を食べ、それを男にも勧めて食べさせたことの結果として与えられたものだったのだ。
罪とはなんと恐ろしく忌まわしいことなのだろうか。私たち陣痛の苦しみを知る女は、それに恐れおののかなければならない。女に産みの苦しみを与えられた神は、男にも、生きるための労働の苦しみを与えられた。
「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ』」(創世記3章17節)「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(同19節)
女の陣痛に対し、神は、男には労働の苦しみを与えられた、ということだ。つまり罪によりこうむった結果が男と女とでははっきり違うということで、生涯かけて労働の苦しみの続く男の苦しみと、激しくはあるが一日かそこらで終わってしまう女の苦しみ、どちらがどうとは言えないのではないかと思う。
だから、私は忘れることにしよう。真夜中に陣痛が始まり唸り声をあげている私のそばでぐうぐう寝ていた夫のことを。分娩室で、最初の頃こそ背中をさすってくれた夫が、いつの間にか姿を消して、私の病室のベッドでいびきかいて寝ていたことを。忘れよう。彼は、私や息子たちのため、労働の苦しみを味わってくれているのだから。
とにかく、そのようにして1989年4月には長男(息子A)、翌年1990年7月には二男(息子B)が生まれた。
「男の子ですね、B型ですね」と、お医者様は言った。
(文・しらかわひろこ)