ダビデ王に引き続き「罪(原罪)」についての理解を助けるために、ヨブ記のヨブの告白をみていきたいと思います。ヨブとは当代一の義人と言われた人であり、多くの人の尊敬を集める非常に敬虔な人物でした。彼はその地方で一番豊かな人であり、ダビデ王が犯したような罪からも無縁で全く潔白な人物でした。彼がどれほど清廉潔白な人生を歩んだのか、彼がどれほどあわれみ深く慈愛に満ちた人物であったのか、彼の告白を通してみていきたいと思います。
「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。私は自分の義を堅く保って、手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない」(ヨブ記27:5、6)
「それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。・・・私は目の見えない者の目となり、足のなえた者の足となった。私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。私はまた、不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた」(同29:12~17)
「私は不運な人のために泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい者のために悲しまなかっただろうか」(同30:25)
「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう」(同31:1)
彼は自分の身の潔白を、声を高らかに主張しています。そう聞くと現代日本人のわれわれは「自分の正しさを主張するとは、プライドの高い人だな」と感じるかもしれません。しかし、ヨブがこれを主張した背景は壮絶なものでした。
彼は突如として災害により全財産を失い、全ての息子娘たちを失い、全身に土器で身をかかなければならないほどの悪性の腫れ物ができてしまったのです。その時にその惨状を聞いた3人の友達がヨブを慰めるためにやってきましたが、彼らはあまりの惨状に言葉を失い、ヨブが何らかの罪を犯したために神様によって罰を受けたのだと決め付けてしまいます。そして慰めるはずが、かえってヨブの罪を指摘して批判しだしたのです。ただでさえ、悲しみと苦しみの極地にいるヨブはその3人の友達の言葉によってさらなる心痛を味わうことになり、その苦しみの中で彼が自分の潔白を訴えたのが上記の言葉なのです。私はそれが彼の真実な告白であると感じます。
彼は生涯妻以外の女性に目を向けず、弱者や孤児また障がいのある人を積極的に助け、自分のしもべの言い分にもいちいち耳を傾け、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜びました。決して自分の富を自分の心のよりどころとすることもなく、偶像に仕えることもなく、あらゆる不正から自分を潔白に保ちました。結果誰よりも敏感であろう彼の良心は一度も彼を責めることがありませんでした。そもそもヨブ記の冒頭を見ると、彼の正しさは神様ご自身によって証言されているほどです(ヨブ記1:8)。それほど潔白であったヨブでしたが、彼もまた自分の罪性を告白し、深く悔い改めることになります。彼の告白を引用してみましょう。
「ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。・・・私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ記42:1~6)
なぜ彼は突如として悔い改めたのでしょうか。3人の友人の言葉に思い当たる節があったのでしょうか。いいえ、ヨブの3人の友達も立派な人物たちであり、神に対する信仰を持ち、人々に尊敬されている長老たちでした。しかしヨブは彼らの言葉によっては自分の罪を自覚することも、悔い改めるということもしませんでした。むしろヨブは彼らの言葉に反感を覚え、前述のように2倍3倍の言葉で自らの「正しさ・義」を主張しました。そうではなく、彼の罪の自覚は聖なる神とのEncounter(出会い、遭遇、直面、邂逅体験)の中で起こりました。神の前に自らの正しさを主張するヨブの前に、神ご自身が臨在されたのです。その瞬間、ヨブは畏敬の念にうたれてしまい、自らの存在の罪深さを一瞬にして悟ったのです。
しかし、ヨブ記を読む時に違和感を覚える方もいるかもしれません。『悩む力』などの著書で有名な姜尚中氏が『悪の力』という本を出されました。興味深く読んでいると、その中で氏は「ヨブ記」に対して納得がいかないと語っています。一部を引用してみましょう。
「・・・神が登場します。そして、何とも傲慢でカリスマ的な言葉でヨブを説き伏せるのです。ヨブは圧倒され、言葉を失います。恐れ入って悔い改めたヨブに、神は満足し、今まで失ったすべての持ち物を二倍にしてヨブに与え、新たな子供の命も授けます・・・」(同著p155)
圧倒的な存在の優位性をもって、高圧的な言葉をかける神と、その前になす術もなくひれ伏し悔い改めたヨブ、それにご満悦した神が富を再び施すという図式に何とも言えない理不尽さを感じるというのです。結末のみならず、物語の冒頭で神が悪魔の提案に乗る形で、ヨブを試みることを許されたという部分にも疑問を持たれる方もいることでしょう。ではどのようにヨブ記を理解したら良いのでしょうか。それを詳細に語りだすと多くの紙面が必要なので、今回は少し異なる角度から幾つか簡単にポイントを挙げさせてください。
ヨブ記の主人公はキリスト
ヨブ記を読んだことのある方は、ヨブ記にはキリストは登場しなかったよなあと思うかもしれませんが、キリストはヨハネの福音書の中でこう語っています。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)。ここでいう「聖書」とはキリストの時代に世にあったものですから、現代でいうところの旧約聖書を指します。つまり、ヨブ記を含む旧約聖書の各巻は、全てキリストを中心に書かれているというのです。モナリザの絵のパズルに例えると、キリストが中心のモナリザで、聖書の各巻や登場人物たちは背景の森や川や空となります。絵というのは中心人物にピントが合い、背景はあえてボカして描かれますので、背景の一つのピースだけを詳細に研究しても「なんだかピンボケしているし、何を描きたいのかも分からん」ということになります。ですから、ヨブを中心にヨブ記だけを読むと理不尽さや違和感を覚え、承服し難く感じるかもしれません。それでは、「キリストの福音」という主題のもとでヨブ記を読むと、どのようなテーマが見えてくるでしょうか。幾つかだけ、列挙してみます。
仲裁者の不在
ヨブはその極度の理不尽な苦しみの中で、こう叫びます。「神は私のように人間ではないから、私は『さあ、さばきの座にいっしょに行こう』と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない」(ヨブ記9:32、33)。彼は神の存在を認めつつも、圧倒的な存在である神の前に、いくら正しく生きようと努めてみてもなお厳然と横たわっている隔絶に絶望し、間を取り持つ「仲裁者の不在」を嘆いたのです。遠藤周作氏の『沈黙』という作品においても、神と人との間にある隔絶がリアルに描かれています。この神と人との間の厳然たる隔絶に直面するとき、私たちは仲裁者なるキリストを真に希求することになるのです。ヨブ記33:23、24には神の前に人をとりなす者(仲裁者・代言者)が与えられることが預言的に描かれています。
魂の贖い
神は肉体的な苦しみや、この世での成功の有無にまして、人の魂に多大な関心を持ってくださっています。このことに関しては、32章になって突如登場するエリフという若者の言葉の端々ににじみ出ていますので、少し引用してみます。
「あるいは、人を床の上で痛みによって責め、その骨の多くをしびれさせる」(33:19)
「神は・・・人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。神は人のたましいが、よみの穴に、入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる」(同16~18)
「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」(同24)
「神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず」(同28)
ヨブの時代にはキリストの福音による魂の救いや永遠の命などは解き明かされていませんでしたので、富や家畜などの所有・現世的成功や肉体の健やかさなどが神に祝福された人かどうかの基準となっていましたが、エリフは富や肉体の苦しみの有無などにはるかにまして、魂が贖われ命を得ることの方が重要であることを宣告したのです。ぜひヨブ記33章全体を読んでみてください。だからと言って、神様が人の健康や貧困に無関心であるという意味ではありません。それらより「まして」ということです。
最も正しい人の中にある罪(原罪)
冒頭から読み解いてきた通り、ヨブには人間としては何の欠点も罪もない義人でした。それどころか、弱者やしいたげられた人の友となることを積極的に心がけていた素晴らしい人物でした。3人の友人がヨブを非難したことは的外れであり、後に彼らはヨブを恥辱したことで神のお叱りを受けます。このような人間として最も正しい人物が、神の前に自らの存在の罪深さを悔い改めるという衝撃的な事実を、ヨブ記は私たちに見せているのです。三浦綾子氏の代表作である『氷点』は人間の原罪をテーマにしたものですが、氏はその中で全ての登場人物たちの中にある罪性を描いています。そして最後には、それら周囲の人々の悪意に翻弄されながらも明るく生きようと努める健気な主人公「陽子」にまで自身の存在の罪深さを告白させます。このように、人間として最も正しい人たちの中にすら「原罪」が潜んでいるということが、一見理不尽にも思えるでしょうが、聖書の教える人間の姿なのです。それと同時に聖書は、人間の中で最も極悪な人もまた神の被造物であり、神の「神性」にあずかり得る高貴さが潜在していることをも教えています。
このようにヨブ記は通常の話としては違和感があるかもしれませんが、単純な因果律や勧善懲悪を説いているのではなく、「魂の尊さ(魂の贖い)」「仲裁者の不在」「全ての人にある原罪」といったような重要なテーマの織り交ぜられている不思議な書物です。そしてこれらのテーマは私たちをして「キリストの福音」がぜひとも必要であることに気付かせるのです。
【まとめ】
- ヨブは罪を犯したことのない義人であったが、瞬時にして全てのものを失ってしまう。
- 3人の友人はヨブが罪を犯した故に災難にあったのだと「因果」を主張する。
- しかし彼らの指摘は誤りであり、ヨブは人として完全な正しい人であった。
- しかし聖なる神が臨在された時、彼は自身が本質的に罪人であることを悟り悔い改める。
- ヨブ記(聖書全巻)の主人公はキリストであり、主題はキリストの福音である。
- そのような視点で見るときに、全ての人にある原罪・仲裁者の不在・魂の贖いなどのテーマが見えてくる。
◇