「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」(詩篇51:4)
古代イスラエルには、神を敬う王たちが少なからずいましたが、その中でも、イスラエル史上最高の王様として現在に至るまで多くの人の尊敬を集めている王様がいます。イスラエル王国2代目の王様、ダビデ王です。このダビデ王の告白を通して、私たちは「原罪」の本質がどのようなものであるかに気付かされます。
まずは現代の日本にはない王制について確認しておきます。昔の王様というのは絶対的な権力者でしたらから、何をしようと人から文句を言われることはありませんでした。誰であれ自分の気に入った人を自分の側室にすることもできたし、人の命を生かすことも殺すことも一存で決めることができました。ですから少なくない王たちは自らを神に近い存在、もしくは神自身であるかのように振る舞い、自らの造った像を礼拝の対象とさせるような王たちもいました(ダニエル3章参照)。
しかしダビデは非常に謙遜な王であると同時に、神様と共に歩む王であったために、いくら人の間で偉大な者であったとしても、神の前には非常に小さな者であるにすぎないこと、また人から聖者と言われようとも神の前には罪人であることを深く理解していました。そんなダビデの口から出た告白が冒頭の一文ですが、前後を含めてもう一度引用してみます。
「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」(詩篇51:1~4)
徹底的に自分の罪を認めており、神の赦(ゆる)しときよめを真実に求める告白となっています。実はこの詩篇51編が書かれた背景が、その冒頭に記されています。ダビデは多くの人に尊敬された希少な王様でしたが、その偉大な生涯の中でも最大級の失態をやらかしてしまったのです。こういうものでした。
「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」
「ダビデがバテ・シェバのもとに通った」というのは、何を意味しているのでしょうか? 実はダビデは、自分の忠臣ウリヤの妻バテ・シェバが非常に美しかったために心を奪われてしまい、ウリヤが戦いで留守の間に彼女と関係を持ってしまうのです。しかもそのことがウリヤに発覚することを恐れて、ウリヤを戦いの最前線に送るように命じます。それだけではなく彼が最前線に行ったときに援護の軍隊を引くように命じ、忠実な部下の命を間接的に奪ってしまったのです。
これほどの事をしても、先ほど触れたように当時の王たちは絶対的な権力を持っていて、何の良心の呵責をも感じないという時代でしたので、ダビデ王が心から悔いたというのは、その最悪の状況の中でもダビデ王の特異性が表れています。しかし、それ以上に特異な点が、彼の神に対する悔い改めの内容です。
「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」
ダビデが罪を犯したのは、バテ・シェバであり忠臣ウリヤに対するものでした。しかし彼は神に対して、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し」と言っています。これはどういうことなのでしょうか?
このことは、ダビデが罪を犯した相手に対して申し訳ないと思っていないということではありません。彼は自分がバテ・シェバと忠臣ウリヤに対して大きな罪を犯したことを自覚していましたが、それ以上にそのような罪を犯してしまった根が自分の霊魂の中心にあり、善であり聖なる神に対する「罪(原罪)」にあることを告白したのです。彼は、自分が神に対して罪人であるゆえに、人に対しても罪を犯してしまったのだということを一瞬で悟ったのです。
アダムが神の言葉に背を向けたゆえに罪とのろいを身に負ってしまったのと同様に、私たち人類が罪を犯したくなくても罪を犯してしまう理由は、私たちと神様との関係にヒビが入っていることによるのです。そのようなわけでダビデの告白は「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し」となったのです。
この「ただ神に」という姿勢は、今日の私たちの信仰生活においても礎(いしずえ)となるべき非常に大切なものです。悔い改め・礼拝・祈り・賛美・聖書通読・仕事・生活などは、人ばかりを意識するのではなく、ただ神の御前で神様を中心になされていくものなのです。例えば祈りにおいては、あのことが上手くいき、このことが解決されますようにと自分の要求ばかりをする前に、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように・・・」という主の祈りにおいて一番大切な「ただ神に」対する冒頭部分の祈りを、心を込めて何度でも繰り返し祈ることが幸いなことです。これ一つでも実践されるならば、祈りの中において涙と共に、何とも言えない魂の深い喜びと、生ける神との交わりを実感するようになります。
最後に繰り返しになりますが、神に対して悔い改めさえすれば、私たちの罪により実際に被害を与えてしまった相手に対して、何もしなくてもよいということではありません。私たちも罪を犯せば、当然のことでき得る限りの謝罪と償いをすべきですし、苦い体験を味わうことにもなるでしょう。ダビデ王も神の御前に悔い、赦しを与えられましたが、それでもその罪の代償として苦渋の道を通りました(Ⅱサムエル12章)。
次回は義人ヨブの告白を通して、「罪(原罪)」の本質を別の角度から確認していきたいと思います。
【まとめ】
- ダビデ王はイスラエル史上最高の王であった。
- しかし彼は部下の妻を寝取り、その部下を殺すという大きな罪を犯してしまう。
- 彼はその原因が、神に対する罪にあることを悟り、ただ神に対して悔い改めた。
- 「ただ神に」という姿勢は、今日のクリスチャンにとっても大切。
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