『あぶない一神教(いっしんきょう)』という、ちょっとドキッとするようなタイトルの対談本がつい先日刊行されましたが、橋爪大三郎氏と佐藤優氏の対談の中で、橋爪氏が「原罪という概念はユダヤ教やイスラム教にはなく、キリスト教のみにある」と語っておられました。ユダヤ教にないかどうかは議論の分かれるところですが、「なるほど」と思わされました。今回のテーマは「原罪」についてです。
なぜ「原罪」が人類の深部を蝕んでいるのかを確認する前に、神様が人間をどのような存在として造られたかを押さえておきたいので、創世記1章を開いてみましょう。
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創世記1:26、27)
神様は神様ご自身に似せて人間を造られ、彼らをして他の生き物たちの管理者に任じられ、人間を造られた後に「見よ。それは非常に良かった」と結論づけています(創世記1:31)。
その後、最初の人であるアダムとエバは神と親しく会話をし、互いに深く信頼し愛し合う関係を築いていきました。そこには何の罪も後ろめたさもなく、律法や十戒がなくても、何の問題もない状態でした。その状態を象徴している印象深い一節がありますので、引用しておきます。
「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2:25)
人は罪や後ろめたさや相手に対する警戒心があると、相手から身を隠すものです。身を隠せない場合は、心を隠します。平静を装い、表面的な人間関係に終始し、腹を割って話しません。それとは対照的に、最初の人は心に何の罪もやましい心も無かったので、身も心もオープンでいて何の問題も無かったというのです。ではそんな人類に、どのようにして罪が忍び込んで来たのでしょうか?
世の中には人間の有様を理解する説として、孟子(もうし)の説いた性善説と荀子(じゅんし)の説いた性悪説というものがあります。これらは本来の人間は先天的に「善」であるとする考え方と、それとは逆に「悪」であるとする考え方です。この二つともに、「なぜそうであるのか?」という問いと、「なぜ後天的に反対の性質を獲得し得るのか」という疑問に答えられません。
例えば、人間は本来「善」であるとするなら、なぜ「悪徳」を身につけてしまうのでしょう。それに対して孟子は、それらは周りの人々や外的環境によって影響を受ける故だと説明します。それでは、なぜ「周りの人々」は悪徳を身につけてしまったのでしょうか?それはその周りの人々に影響を・・・。では、最初の人は一体誰に影響を受けて悪徳を身に着けたというのでしょうか?
またもしも人類が本来「悪」なる者として存在しているのなら、最初の頃の人は一体誰に教育を受けて「善」なる心を習得したというのでしょうか? そしてそれは最も上手く習得した場合でも、本来の自分の姿でない自分を繕い演じるということになるのではないでしょうか?
それらに対して、聖書がどのように「罪や悪の起源」を説明しているかを見てみましょう。まず神様は人類に一つだけ戒めを与えられました。
「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:15~17)
この戒めを最初の人はよく守っていたのですが、あるとき問題が生じます・・・。
「・・・蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。・・・それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」(創世記3:1~8)
何と人類は、蛇に狡猾(こうかつ)に惑わされて、神の戒めに背き、聖なる神を避けるようになってしまったのです。これが人類の原罪(Original Sin)の起源なのです。この蛇というのは、聖書においては、悪魔とかサタンなどと呼ばれる者を象徴しています(黙示録12:9)。
つまり人類は、「非常に良い」者として造られたのに、最初の「ひとりの人」が惑わされて罪を犯し、神に背を向けてしまい、その影響が全人類に及んでしまったのです。このことは新約聖書において、明言されています。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙5:12)
この創世記の話を聞くと、「それは自分ではなく自分の祖先の過ちであり、自分には責任がない」と言われるかもしれません。確かにその心情は十分理解できるのですが、聖書は「それというのも全人類が罪を犯したからです」と釘を刺しています。
こう自らに問われたら、理解しやすいかもしれません。「もしも自分がアダムの立場だったなら、果たして自分は過ちを犯さずに神の戒めを守り通すことができただろうか?」
どうでしょうか?この問いに正直に向き合われる方はおそらく「自分はアダム以上に簡単に過ちを犯していただろうな」という結論に達するのではないでしょうか?
しかし、どうか気分を害さないでください。私たちは自分が罪人であることを神の前に悔い改めることは大切ですが、自己卑下に陥ったり、聖書の教えに反感を覚えたりする必要はありません。なぜなら、本来的には「非常に良い」存在として造られた人が、惑わされて「罪の根(原罪)」を持つようになったということは、その問題さえ解決されれば、再び神の似姿として造られた高貴な存在へと回復する希望を秘めているからです。
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」(Ⅱペテロ1:4)
【まとめ】
- 人類は、裸であっても恥ずかしくないほど、純粋で高貴な「非常に良い」存在として造られた。
- しかし、人類は騙(だま)されて、その存在の深部に「原罪」を持つものとなってしまった。
- つまり、罪の問題さえ解決されれば、人類は再び神のご性質にあずかる者とさせていただくことができる。
【考察】
- そもそも、なぜ神様は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という戒めを与えたのでしょうか?(創世記2:17)
- 「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と宣告されたアダムは、なぜそのあと930歳まで長生きしたのでしょうか?(創世記5:5)
- なぜ神様は「いのちの木の実」を食べられないように、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれたのに、善悪の知識の木の実を食べることは止めなかったのでしょうか?(創世記3:22~24)
※そもそも性善説や性悪説は人類の本性を哲学的に解明しようとしたというよりも、現実的な政治の問題として、「礼」や「学問」の大切さを説くために設定された前提ですので、「原罪論」と比較して優劣を付けるべきものではありませんが、聖書の「原罪」と「人類」の関係を理解する上で助けになりますので、多少粗っぽく列挙させていただきました。
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