本書の結びである最後の箇所で、これまで述べてきたことを要約しています。その要約には、キリスト者としてのアイデンティティーを確立させようとするねらいがあります。アイデンティティーという言葉を広めたのは、アメリカの心理学者エリクソンです。第二次世界大戦の戦場でたくさんの人が精神障害を起こし、戦場を離れてもなかなか治らない多くの事例を調査し、その原因を統括する意味でエリクソンは「アイデンティティーの喪失」ということを言いました。以来、心理学の世界で、アイデンティティーという言葉がよく使われるようになったのです。
アイデンティティーには、辞書を引くと、いろいろな意味があります。アイデンティフィケーションと同じで「身分証明」という意味があります。自分が何であるかを示す、という意味が基本にあるのです。直訳すれば「自己同一性」で、「自分が自分であること」を意味します。エリクソンによると、自分が置かれている歴史的・社会的環境の中で、自分がどこに・どのように立っているのか、自分はどんな役割でどんな目標に向かって歩んでいるのか、よく分かっている状態がアイデンティティーの確立した状態なのです。
アイデンティティーの確立が時代の青年たちの間で遅れているという状況を見て、エリクソンはモラトリアムという言葉も使いました。これは経済学の用語で「支払いを猶予する」ことを意味します。この用語をエリクソンが、学生が社会人になることをためらっている状態に当てはめたのは、そのことが青年たちのアイデンティティーの確立を妨げていると見たからでしょう。ところで、私たちはキリスト者としてのアイデンティティーを確立しているでしょうか。そのことが今、私たち一人一人に問われています。キリスト者として、自分は何ものであるか、これからどんな役割でどんな目標に向かって歩いていこうとしているのか。そういうことが、キリスト者としてよく分かっているでしょうか。
本書の著者は、この結びで、そういう意味でのキリスト者としてのアイデンティティーを確立してほしい、いや何としても確立させたい、という一念でいるのではないでしょうか。この短い結びの中に、「私たちは知っています」という言葉が、18節、19節、20節と繰り返し三度も出てきます。新改訳では19節と20節は、「私たちは」を省いて「知っています」だけにしています。その点で、18、19、20の各節の冒頭に「わたしたちは知っています」という語句を出している新共同訳は優れています。
第一に、「神から生まれた者はだれでも罪の中に生きない」ということを「私たちは知っています」。「神から生まれた者」とはキリスト者のこと、「罪の中に生きない」とは「罪を犯さない」ことですから、《神から生まれた者であるキリスト者は罪を犯さない》ということです。そのことを「私たちは知っています」と言うのですが、「私たちは神から生まれた者であるから罪を犯しません」と、私たちは確信を言えるでしょうか。
そう確信を持って言える根拠が18節後半に述べられています。「神から生まれた方が彼(キリスト者)を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないからです」と。キリスト者が罪を犯すことができないのは、「神から生まれた方」であるキリストが彼の罪を取り除くために現れ、彼を守っていてくださるからなのです。
第二に、19節で「私たちは知っています」と言われているのは、「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にある」ということです。「悪い者」とは悪魔のことなので、全世界は悪魔の支配下にあります。しかし、キリスト者は「神からの者」として神の支配下にあります。神は「私たちを暗闇の支配から移して、ご自分の愛の御子の支配下に移してくださいました」(コロサイ1:13、一部私訳)。そういうわけで、私たちキリスト者は今、神の愛の御子であるイエス様の愛の支配下に置かれているのです。
第三の「私たちは知っています」は、20節前半に記されています。その内容は「神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださった」ことです。これは第二のことと関連しています。私たちが神の支配下に移されているのは、神の御子イエス様が来てくださって、「真実な方」である神を知る理解力を与えてくださったからです。私たちは、イエス様によって、イエス様の父である真実な神を知ることができるようになりました。その結果、私たちは今、神の愛の支配下に置かれているのです。
「真実な方」の「真実」は、「真理」とも「まこと」とも言えます。「真理」と「まこと」は、「愛」と深く通じるものがあります。「愛は神から出ている」ので(4:7)、「真実な方」である神は、愛の根源として《愛に満ちたお方》なのです。イエス様は、そのような神を私たちに示してくださいます。示すだけでなく、そのような神を知る理解力も与えてくださっています。それは聖霊の導きと助けによることで、私たちは聖霊に満たされ聖霊に導かれるとき、イエス様の父である神がどんなに《愛に満ちたお方》であるかを本当に深く知るものとされるのです。
それから、私たちに「真実な方」である神を示してくださる御子イエス様も「真実な方」であるのです。20節後半に「それで私たちは真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです」とありますが、ここでの「真実な方」は明らかに御子イエス・キリストを指しています。イエス様も「真実な方」、《愛に満ちたお方》です。私たちに《愛に満ちた真実な方》を示してくださるイエス様が《愛に満ちた真実な方》であるのは、当然のことでありましょう。
さらに20節の終わりに、「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」と、重大な説明が付されています。「まことの神」であるイエス様は、私たちと同じ人間となってくださいました。人間であるご自身のいのちを捨てることで私たちの「贖(あがな)い」となり、死を破って復活することで「まことの神」の栄誉を回復されました。このイエス様が「永遠のいのち」と呼ばれるのは、イエス様のいのちが愛に満ち、その愛が尽きることを知らないからです。神から出ている「愛は決して絶えることがありません」(Ⅰコリント13:8)。
私たちは御子の愛を受ける信仰によって、「永遠のいのち」である「御子イエス・キリストのうちにいる」ことになるのです。このようにキリスト者は、愛に満ちた「永遠のいのち」の中に包まれ、イエス・キリストの愛に取り囲まれています。そこには喜びがあり、希望があり、平和があります。この恵みを深く味わっているキリスト者が、このキリスト以外の偽りの神に心を寄せることなど、考えられないことなのです。
21節には「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」とあります。この「偶像」は、イエス・キリスト以外のものを神とすることに他なりません。イエス・キリストによって示された「真実な方」以外のものに心を寄せることが《偶像礼拝》ということになるのです。しかし、「真実な方」の内にいる恵みを深く味わっている者、そのようにキリスト者としてのアイデンティティーを確立している者が、偶像に心を寄せることなど決してありません。キリスト者として「真実な方の内にいる」という恵みを、日ごと新たに体験しつつ歩ませていただきましょう。
(『西東京だより』第84号・2011年9月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。