6節は、前節の「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」を受けて、イエスはこういうお方です、と説明しているのです。それにしても「このイエスは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです」(6節前半)という説明は、初めて聖書を読む人にはチンプンカンプンでしょう。「水と血とによって」とは、何を意味しているのか。この言葉を理解するのは、本書が書かれた当時の時代背景を知る必要があります。
本書が書かれた時代は、イエス様が世を去ってから数十年以上も経過していました。その間に、イエス様についての受け止め方や理解をめぐって、いろいろな主義主張が展開されました。その中に「イエスが肉体をとって地上に現れたのは仮の姿にすぎない」と主張するグノーシス派と呼ばれる集団がありました。その思想的背景にあったのは、霊魂と肉体とを分離するギリシア的《霊肉二元論》です。それによると価値があるのは霊的なものだけで、肉的なものには価値が認められません。その典型が、ギリシアの代表的哲学者プラトンの思想です。
プラトンの思想は、ある程度、師ソクラテスの思想を継承し、それを反映しています。ソクラテスは、肉体を霊魂の牢獄と考えました。すると肉体の死は、霊魂が牢獄から解放されることを意味します。それでソクラテスは死を恐れなかったのです。「死によって霊魂は肉体という牢獄から解放されて自由になるのだから、死は悲しむべきことではなく喜ぶべきことなのだ」と、彼は弟子たちに教えました。その背景にあったのは、言うまでもなく《霊肉二元論》です。
この《霊肉二元論》を引きずっていたグノーシス派の人々は、《イエスはヨルダン川で洗礼を受けたとき、天から下る霊を受けた。しかし、十字架につけられる前に、霊はイエスを離れて天に上って行った》と教えていました。すると十字架につけられたイエス様は、天から下って来られたような方ではない、ということになるのです。
本書の著者は、イエス様が「水と血とによって来られた」ことを強調していますが、その「水」は洗礼の水、「血」は十字架で流された血を指しています。ヨルダン川で洗礼を受けたイエス様は、十字架につけられた血を流したお方でもある、と著者は言明しているのです。十字架で血を流し、私たちのために死んでくださった[人となられた]神様! ここに見られるのは、人間的には理解し難い背理としか思われない神様の姿です。
ギリシア思想には、神が死ぬという考えはありません。神は不死であるからです。それなのに「神が死んだ!」と言うのは大きな矛盾です。それでグノーシス派は、キリストの受肉の教理を否定しました。しかし聖書の福音は、「[受肉した]神が死んでくださることにより、神は私たちに対する愛を現してくださった」と主張するのです。人となった神であるイエス様は、十字架につけられて死んだだけでなく、死を打ち破って復活させられました。この[死んで]死に勝利したイエス様こそ、私たちに罪の赦(ゆる)しと永遠のいのちを与える救い主(キリスト)でいらっしゃるのです。
そのことを聖霊が証ししてくださいます。「あかしをする方は御霊(聖霊)です。御霊は真理だからです」(6節後半)。この真理の御霊の証しに耳を傾けるとき、私たちは十字架につけられた神の御子をキリストと信じることができるのです。パウロが「御霊によらなければ、だれも『イエスは主です』と言うことができません」(Ⅰコリント12:3)と教えるように、イエス様を主キリストと告白する信仰は、真理である聖霊[なる神]が授けてくださる賜物である、ということを肝(きも)に銘じましょう。
《洗礼者ヨハネから水で洗礼を受け、十字架において血を流された[そして死に勝利して復活された]イエス様こそ、私たちの救い主キリストである》と告白するのが、私たちの信仰です。それは聖霊なる神が私たちに証しし確信させてくださるものですから、断じて私たちの確信ではありません。よく信仰を、私たち自身の信念(確信)と取り違えてしまうことがあります。「私には信仰が無い」と嘆く(いや時には居直る)人がおりますが、そんな信仰はもともと無いのです。有るのは、恵みとして授けられる信仰だけです。
信仰を自分の信念や確信のように思い違いしていると、自分の信仰を誇りたくなり、信仰が弱そうな人を見れば「駄目じゃないの」と裁くようになります。そんな信仰は、聖書が教える信仰ではありません。「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」(10節)。イエス様を信じることは、この神の証しを心の中にいただいていることに他なりません。そのように神の証しを受けることが信仰であるとすると、信仰は私たちが誇るべきものではありません。ただ感謝すべきものであるのです。
神の証しを心の中にいただいているとき、私たちは御子にあって永遠のいのちを持つことができます。「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです」(11節)。私たちは御子(イエス・キリスト)をいただくことにより、御子にあって永遠のいのちを持つ身とされています。パウロは「もはや私が生きているのではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白していますが、それは私たちキリスト者一人一人の告白でもあるのです。
そのように告白するのは、私たちがキリストのように生きるために他なりません。キリストのように生きるとき、私たちは罪を犯さないようになります。キリストは罪を犯したことのないお方です(3:5、6参照)。キリストのように生きるなら、私たちも罪を犯さない生活をすることができます。《人間はみんな罪人だから、そんなことは無理だ》と言われるかもしれません。しかし、私たちが真摯(しんし)にキリストのように生きるなら、決して到達不可能な目標ではないのです。
罪を犯さないとは、具体的に言うと、愛を行う人になるということです。反対に、愛を行わないことが、罪を犯すことになります。御子であるイエス様を持つ私たちキリスト者には、イエス様の永遠のいのちが与えられています。そのいのちには愛が満ちあふれているので、私たちのうちにイエス様の愛が注ぎ込まれているのです。そのことを、いつも覚えていなければなりません。キリストの愛を全身に感じて生きた人であるパウロは、「キリストの愛が私を取り囲んでいる」と言っています(Ⅱコリント5:14)。キリストの愛に取り囲まれるとき、私たちもイエス様の愛に満たされて、イエス様のように「愛を行う人」へと変えられていくのです。
日本では、なかなかキリスト教が受け入れられません。でも、キリストであるイエス様なら、もっと多くの人に受け入れられるのではないでしょうか。キリストであるイエス様は愛に満ちあふれたお方であり、その愛を受けることは少しも難しいことではありません。そして、すべての日本人が一番必要としていることでもあるのです。私たちの近くにいる人、遠くにいる人が「御子イエス・キリストとの交わり」に導き入れられるように、私たち自身が《御子についての神の証し》をしっかり心に持つ者となりましょう!
(『西東京だより』第82号・2011年7月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。