3節に「神を愛するとは、神の命令を守ることです」とあるように、神を愛することが具体的に示されるのは神の命令を守ることによります。神の命令を守ることによって、神を愛することが具体的に示されるからです。ここでの「神の命令」とは、《神が御子にあって私たちを愛してくださったように、私たちも御子にあって互いに愛し合うようにしなさい》というものです。神が私たちに命じておられる通り、《人を裁かず、兄弟姉妹を憎まず、人を赦し、兄弟姉妹を愛する》ことが、神をお喜ばせすることになります。そのように神をお喜ばせすることをしないで、いくら「神を愛している」と言っても、それは偽りなのです。
神に喜ばれる道とは、私たちが神の愛に応えて生きることにほかなりません。神が私たちを愛してくださった愛に応えて私たちが身近な人々を愛するようになるのは、自然のことでありましょう。それで「(神の)命令は重荷とはなりません」と言われているのです。ところが、そうではないと感じているキリスト者が少なくありません。私自身も、以前は「神の命令に従うのは本当に難しいことだ」と思っていました。しかし、福音の真理が本当に分かるなら、そういう思いは一掃されてしまうのです。
イエス様は私たちのためにご自身のいのちをささげてくださいました。そのイエス様は復活者として[日ごと新たに]聖霊によって来て私たちにも現れ、私たちと共におられます。そして私たち一人一人に「今日も、わたしはあなたと共にいたい」と仰(おっしゃ)います。このイエス様を喜んでお迎えすることこそ、私たちの信仰です。そのようにして《イエス様が自分と共におられる》という体験を真実に味わっていることが、福音を信じていることになります。言い換えるなら、神様の愛が本当に分かっていることが、福音がよく分かっていることになります。福音がよく分かっているなら、神様の愛に応えて人を愛するようになりますから、神の命令を守ることは苦痛であるどころか、むしろ喜びとなるのです。決して重荷とは感じません。もし重荷と感じるなら、まだ自分は福音をよく理解していないのだ、ということに気付くべきではないでしょうか。
私たちキリスト者には、4:19後半の「神がまず私たちを愛してくださったからです」という聖句が、深く心に刻まれています。神がまず私たちを愛してくださった! この福音の恵みが、いつも先行しているのです。この福音の恵みの現実は、「神によって生まれた者はみな、世に勝つ」(5:4)と言い換えることができます。「世」とは、《私たちを神から遠ざけようとする暗闇の力》を指しています。イエス様は、この暗闇の力を消し去る《まことの光》として来られました。このイエス様を信じて《私たちがイエス様の光の中にいる》という恵みの現実こそ、私たちが「神によって生まれた」ことにほかなりません。そのように「神によって生まれた者」であるキリスト者は、イエス様の愛の光に包まれて、「世に勝つ者」とされているのです。
このように、すでに世に勝っている者がキリスト者であり、それはイエス様の愛の光によって与えられている《愛の勝利》にほかなりません。世を支配する暗闇の力は打ち破られました。私たちはすでに世に勝っている者であって、これから勝つ者ではありません。イエス様の愛の光を受ける「私たちの信仰」こそ、私たちが「世に打ち勝った勝利」なのです(4節後半)。
大学生伝道をしている「キリスト者学生会(KGK)」から、かつて月2回刊行されていた『キリスト者』という出版物があります。そのある号に「勝利の生活」と題する一文を寄せた学生がいます。彼は「勝利の生活を送りたい」という願いで心が一杯です。《しかし、信仰生活には多くの誘惑が待ち構えている。それに敗北するたびに、どうしようもない絶望感に襲われる。いつまでこんな生活が続くのだろうか。・・・聖書はわれわれに約束しているではないか。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」》と書いていますが、さらに下記のように続きます。
《聖書の言葉は真実である。ならば、この言葉通りにならないのは、神の側の責任ではなく、われわれ人間の責任である。そこで一つの疑問が出てくる。私は本当に救われているんだろうか。私は思う。それでも私はキリストによって救われた》と。この結びの言葉のように言えて、本当によかったと思います。私も若い頃、牧師になってからも長いこと、彼のような気持ちで過ごしていたことを思い出します。「本当に私は救われているんだろうか」と、何回自分に問い掛けたか分かりません。私の場合も、感謝なことに、自分が救われているという事実だけでは否定することができませんでした。それで何とか信仰生活を続けることができたのです。
先の学生は、《私はクリスチャン生活とはこんなに苦しいものとは思わない》と書いています。私も信仰生活で苦しんでいたとき、「こんなはずではない」と何度も思いました。聖書には「いつも喜んでいなさい」と勧められています。そのように、いつも喜んでいるのがクリスチャン生活ではありませんか。クリスチャン生活は《もっと喜びと勝利に満ちたものに違いない。ローマ書7章止まりのクリスチャンではなくて、ローマ書8章に到達したクリスチャンになりたい》と、彼の文章は続いているのです。
ローマ書の7章では「私は、本当にみじめな人間です。だれが、この死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいます。8章では「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。だれもない! 私たちは、私たちを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者となるのです」と謳(うた)っています。後者のように喜び謳うクリスチャンになりたい、と彼は言っています。そして《しかし、私は解決策を知っている。それはもっと祈ることである。祈らずして何も始まらない》と結んでいるのです。
その結論自体は間違っていません。その通りなのですが、ここでよく考えなければいけないのは、その信仰とはどういう種類の信仰であるのか、ということです。また、その祈りとは、どういう内容の祈りであるのか、ということです。もしそれが、私が何かをしなければならない信仰、私が頑張らなければいけない信仰、私が熱心にする祈りであるとするなら、彼には解決がないと思います。彼はいつまでも[中途半端な信仰という]ジレンマから抜け出すことができないばかりか、「私は救われているんだ」と言い切ることもできなくなる心配があります。大事なことですから、よく覚えてください。信仰とは何かをすることではなく、イエス様の愛をひたすら受けることなのです。このことでは、いささかの妥協も許されません。
イエス様の愛を受ける信仰は、からし種一粒ほどあれば良い。その信仰が私たちの祈りでもあり、私たちが祈り求めなければならないのは、イエス様の愛です。「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)との約束通り、それを求めるなら必ず与えられます。イエス様の愛は光ですから、その光が私の内にある闇をすべて消し去ってくれます。そして私の心に、イエス様の愛を泉のように湧き上がらせてくれます。こうして私は、イエス様の愛を豊かに受けることによって、いつも「世に勝つ者」とされるのです。
(『西東京だより』第81号・2011年6月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。