前回の箇所から学んだように、私たちがキリストから注ぎの油を受け、キリストのうちにとどまっているなら、「いま私たちは神の子どもです」「今すでに私たちは神の子どもです」(3:1、2)ということになります。それで今回は、このことに焦点を合わせ、私たちが「今すでに神の子どもです」という言明の含蓄を、感謝を込めて学びましょう。
今回の段落の初めに「そこで、子どもたちよ」と呼び掛けられています(2:28)。この「子どもたち」は、「事実、いま私たちは神の子どもです」(3:1)と言われるように、「神の子どもたち」の意味です。3:2では「愛する者たち(アガペートイ)」と呼び掛けられています。「アガペートイ」というギリシア語は、きちんと訳すと「愛されている者たち」です。もちろん神に愛されているのですから、「神の子どもたち」とは、「神に愛されている者たち」に他なりません。すると、「今すでに神の子どもです」という言明は、「今すでに神様に愛されているのです」と言い換えることもできるのです。
それにしても、この「私たちは、今すでに神の子どもです」という[すばらしい真理の]言明には、どんな含蓄があるのか。それを掘り下げてみたい。第一に、私たちは「神から生まれている」ので、神の子どもと呼ばれているのです。そのことは、頭のてっぺんから足のつま先まで、まさに徹頭徹尾、神様の恵みによるのだ、ということを知らなければなりません。私たちが何かをしたから、神の子どもと呼ばれるようになった、というのではありません。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」(3:1)! 私たちが神の子どもと呼ばれるために、私たちは神様の愛をいっぱい受けているのです。
このように私たちは神様に愛されている者であり、そのことは《ただ恵みによる》のだと分かるとき、私たちの心から喜びが湧いてきます。神様への感謝と賛美があふれてまいります。「神様、ありがとうございます」と、心から神様を喜ぶことができます。このように神様を喜ぶことこそ、私たちの最高の祈りであると思います。そのような祈りこそ、神様が主イエス・キリストにあって私たちに望んでおられる祈りであるからです(Ⅰテサロニケ5:16~18参照)。
第二に、[私たちが今すでに神の子どもとされていることから]教えられるのは、「まだ明らかにされていない」すばらしい「後の状態」を約束する《新しい現実》が始まっている、ということでしょう。それは言うまでもなく《福音の世界》のことであって、そこに私たちは入れられているのです。
私たちは、ある意味で、生まれたばかりの赤ちゃん(新生児)のようです。その新生児を神様は、ご自分の腕に抱いてくださいます――「ああ、なんと可愛い赤ちゃん!」と言って、愛のまなざしを注ぎながら。その愛のまなざしは、赤ちゃんがどんなにすばらしい未来への可能性を秘めているかを、すべてご存じです。そして、その輝かしい未来への希望を、父なる神様は[神の子どもと呼ばれる]私たちに託していてくださいます。
神様から生まれることが、私たちの目標なのではありません。神様から生まれた私たちは、輝かしい後の状態を実現し完成する方向へと進んでまいります。そのように完成をめざして霊的に成長する過程が《聖化》と呼ばれるものですが、この聖化の始まりが神様から生まれることなのです。私たちが神様から生まれて神の子どもと呼ばれることは、《義認》の恵みに他なりません。すると《義認》が私たちの《聖化》の出発点である、と言うことができるのです。
《聖化》とは、キリストが私たちの内にとどまられることで、私たちの内に「キリストが形造られる」(ガラテヤ4:19)という、すばらしい過程を意味します。私たちの内に「キリストが形造られる」ことは、Ⅱコリント3:18によると、「主と同じかたちに姿を変えられて行く」ことであり、「これはまさに、御霊なる神の働きによるのです」。聖霊に導かれる聖化の過程で、その恵みを豊かに経験することが、信仰生活で味わう喜び、祈り、感謝の源泉となります(Ⅰテサロニケ5:16、17参照)。昨日よりも今日、今日よりも明日と、私たちの内に、もっと確かに「キリストが形造られる」ようになるからです。
第三に、[今すでに神の子どもとされていることは、]神様が私たちを積極的・創造的に愛しておられることの証拠となります。神様の積極的・創造的な愛は、聖化の過程を通して変わることがありません。神様が私たちを愛しておられない、ということなど断じてないのです。私たちの弱さから、詩篇作者のように「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」(詩編42:9)と、神様への嘆きの訴えを口にすることがあります。しかし、神様が私たちをお忘れになることはありません。イエス・キリストにあるとき、そのようなことは断じてないのです。
イエス・キリストは、いつも私たちと共にいてくださいます。いつも共にいようとしてくださっています(マタイ28:20b参照)。共にいるだけでなく、私たちのためにとりなしをしてくださっています(ヘブル7:25)。このように私たちに、いつも積極的・創造的に愛を注ごうとしておられるのです。その愛を喜んで受けることが信仰に他なりません。私たちが信仰によって[価(あたい)なしに]受ける愛は、神様から私たちに積極的に注がれているだけでなく、それを受ける私たちに新しい関係を築かせてくれる創造的な愛であるのです。この愛を受けることで、私たちの人間関係は、互いに愛し合う関係へと創造的に変えられてまいります。
2:28に「キリストが現れるとき、私たちは確信を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入ることがない」とあります。キリストが再臨されるとき私たちは確信を持ち、恥じ入ることがない、というのです。もし自分の責任で何とかしようとするなら、不安に襲われて確信など持てません。しかし、キリストにあるなら、いつも神様の愛が積極的・創造的に注がれているので、何の不安も恐れもないのです。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(4:18)。ですから、いつキリストが再臨されても、私たちは少しも恥じ入ることがありません。
それどころか、「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています」(3:2)。私たちは今すでに神の子どもとされて、日ごと新たに私たちの内に「キリストが形造られる」恵みを経験して歩んでいます。それで私たちは、キリストが再臨されるとき、「キリストのありのままの姿を見」て、そのキリストと同じになることを確信できるのです。これは、なんとすばらしい恵みでしょう!
今すでに神の子どもである私たちは、キリストに似た者となる聖化の過程を着実に歩まされています。その私たちにふさわしい祈りは、感謝と喜び(賛美)の他にありません。「神様、こんなにも私たちを愛し、あなたの子どもにしてくださって、ありがとうございます」と言うだけです。人のためにとりなすときも、神様はその人も愛してくださると確信し、その人に愛が注がれるようにと祝福を祈り、「その人にも愛を注いでくださって感謝します」と言うことができるなら、これこそ「今すでに神の子どもである」者にふさわしい最高の祈りではないでしょうか。
(『西東京だより』第71号・2010年8月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。