本書の4:7以下は、神の愛について教えている有名な箇所で、福音の真理が[聖書の中でも]一番明確に示されている箇所の一つでありましょう。ここで第一に勧められているのは、「互いに愛し合いましょう」という勧めです。この勧めの中で、「神は愛です」という定言が明確に打ち出されています。私たちが互いに愛し合う「愛」は、愛を本質とする神から出ているものなのです。
今回の4:19以下で、もう一度「互いに愛し合いましょう」という勧めに戻ります。ただし、ここでは「兄弟をも愛すべきです」と言われています(21節)。私たちが互いに愛し合うのは、兄弟[姉妹]として愛し合うことに他なりません。こうして兄弟[姉妹]愛に立ち返るに当たり、まず19節で、私たちが愛しているのは「神がまず私たちを愛してくださったからです」と、これまで述べてきたことを要約してくれています。この霊的現実をしっかり見つめるように、あらためて私たちの注意を喚起してくれているのです。
私たちを愛してやまない神様が、私たちに「兄弟をも愛すべきです」「互いに愛し合いましょう」と勧め、また命じておられます。21節後半には、「私たちはこの命令をキリストから受けています」とあります。この「キリスト」は「神」と置き換えてもかまいません。要するに、神がキリストにあって私たちに命じておられることなのです。その命令とは、ただ一つ、「わたしがまずあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに兄弟姉妹として愛し合いなさい」ということに集約される、と言ってもよいでしょう。
神はキリストにあって、他にもたくさんのことを命じておられるのでしょうか。そのように思い違いをしている人が多くいます。キリストは私たちに「[必ず]聖書を読みなさい」「[忘れず]祈りなさい」「[惜しまず]献金しなさい」とは命じておられません。ハッキリ命じておられるのは、「互いに愛し合いなさい」という、この一事だけです。この一事を行うために、聖書を読み、祈ることが必要になります。いくら聖書をよく読んでいても、いくら熱心に祈っていても、兄弟姉妹を愛していないなら、何になるでしょう。
5:2に目を移すと、「私たちが神を愛してその命令を守るなら」と言われていますが、この一句は「私たちが神を愛するということは、その命令を守ることなのです」ということを示唆しています。どのように神を愛するのでしょうか。「兄弟を愛しなさい」「互いに愛し合いましょう」という命令を守り行うことによるのです。4:21に「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです」とハッキリ言われているのですから、前の20節で「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」と言われるのは、当然ではないでしょうか。
神は目に見えないお方です。それで目に見えない神を愛することは、目に見える兄弟姉妹を愛することを通してしか行うことができません。「私は兄弟を憎んでいますが、神様は愛しています。目に見える兄弟は嫌いでも、目に見えない神様は好きです」という理屈は通りません。それは屁理屈です。大切な真理は、「目に見えない神を愛することは、目に見える兄弟姉妹を愛するという具体的行為によって示される」ということなのです。目に見えない神様を愛する行為には形がありませんから、いくらでもごまかしが利きます。そのごまかしが確信になることもあるので、よくよく注意すべきです。
「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです」と教えられていることから、《目に見える兄弟姉妹を愛するという具体的行為が、目に見えない神を愛することになる》という真理を、私たちは心に刻まなければなりません。私たちが兄弟姉妹として互いに愛し合うことこそ、私たちが神様の愛に答える一番の道なのです。神様の愛に答える道は、聖書を読むこと、祈ること、教会生活を守ることなど、いろいろあるでしょう。しかし、それらすべてのことは、兄弟愛・姉妹愛を実践するためのものであることを忘れてはなりません。
5:1に目を留めてください。「イエスがキリストであると信じる者[すなわちキリスト者]はだれでも、神によって生まれたのです」と言われています。キリスト者は、「神によって生まれた」者、すなわち神の子どもなのです。すでに学んだ3:1には、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなに大きな愛を与えてくださったことでしょう」とあります。さらに、「事実、いま私たちは神の子どもです」とあるように、私たちは今、神の子どもにされています。神様が私たちを「生んでくださった」のです。神様は私たちを生んでくださった親(父親および母親)であります。私たちは「母」のイメージも含めて生みの親である神を「父」とお呼びするのです。神は《慈父》でいらっしゃいます。
神様は私たちを生んでくださった親であり、私たちは神様から生まれた子どもです。私たちは神の子どもとして、私たちを生んでくださった神を愛します。そのように親を愛する子どもは、同じ親から生まれた他の子どもたち、すなわち兄弟姉妹をも愛するようになるのです。5:1後半に「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」とありますが、私たちが自分を生んでくださった神様を愛するなら、その神様によって生まれた兄弟姉妹を愛するようになるのは、まことに自然なことだと言わなければなりません。
私は今、朝ごとにイエス様の愛をいただくようにして生かされています。「わたしは今日も、あなたと共にいたい」と言われるイエス様の御声を聴き、イエス様を喜んで私の内にお迎えしています。そのような恵みを深くかみしめていく中で分かったことがあります。《この私をそのように愛してくださるイエス様は、私だけではなく他の兄弟姉妹をもそうしてくださっているのだ》ということが、本当に分かってきたのです。
イエス様は、ご自分を信じる者たちと共にいてくださいます。これは間違いのないことです。しかし、コロサイ3:11の終わりには、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」とあります。この御言葉から、《イエス様はキリスト者だけと共にいるのではなく、他の人とも共におられるのだ》と、教えられているのではないでしょうか。11節前半の「ギリシア人とユダヤ人、割礼の有無、・・・奴隷と自由人という区別はありません」という言葉を増幅させるなら、「信者と未信者という区別もありません」と言えるでしょう。それでも信者は、キリストが自分の内におられることを本当に知っている、という点で未信者と違うのです。
私たちが「神によって生まれた」という真実は、私たちの内におられるキリストの存在に気付くようにされた、という事実に他なりません。そのことに気付かされたからこそ、私たちはキリストを通して示された神の愛を身にしみて感じ、感謝と喜びにあふれているのです。未信者の方々は、まだそのことに気付いていないだけですから、彼らを差別したり、見下したりしてはなりません。時に未信者でも愛の深い人がいます。それは気付いていなくても、その人が彼の内におられるキリストに生かされているからだと思います。イエス様が共におられる恵みを自覚的に経験させられている私たちは、なおさら、神様の愛に応答して目に見える兄弟姉妹を愛し、互いに愛し合うことに励むべきなのです。
(『西東京だより』第80号・2011年5月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。