この手紙が書かれた目的について、筆者は「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(2:1)と明言しています。そして今回の段落でも、「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません」(6節)、「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。・・・その人は神から生まれたので、罪を犯すことができない」と、繰り返し言われているのです(9節)。
そのように言われていることと、筆者が1章で「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです」(10節)と主張していることとの間には、矛盾があるように感じられるでしょう。この矛盾と思われることは、どうしたら解決し、乗り越えることができるのでしょうか。
そのためには、この手紙が書かれた時代背景を知る必要があります。実は、異端的な思想が教会に押し寄せている、という切迫した状況があったのです。その異端的思想とはグノーシスと呼ばれるもので、1世紀の終わりから2世紀にかけて非常に大きな勢力をなしていました。グノーシスとは「知識」を意味するギリシア語ですが、グノーシス異端では、神の知識を有する者(神を知っている者)は罪を犯さない、と主張していたのです。その主張には重大な問題[いや欠陥]がありました。そう主張する人々が、実際には罪を犯していながら、自分たちは罪を犯していないと主張していたからです。
少し乱暴すぎるきらいがあるかもしれませんが、すごく分かりやすいので、グノーシス異端を統一協会やオウム真理教と比べてみましょう。統一協会の場合、「霊感商法」と呼ばれる悪徳商法で世間に害毒を流しながら、それを行っている会員たちは自分が悪いことをしているとは全く思っていませんでした。それどころか、悪魔である世間からお金を奪い取るのだから善を行っているのだと信じているのです。オウム真理教の場合、松本サリン事件(1995年3月)で世間を震撼(しんかん)させましたが、殺すことがその人の救済になるというヴァラジャヤーナ(金剛乗)の道に入る、という途方もないポアの教えを教祖・麻原から叩き込まれた結果、あのような殺人行為を平然とやってのけたのでないでしょうか。
グノーシス異端の中には、実際にはふしだらな生活を送りながら、「もう私たちは神を知っているので罪なんか犯していない」と言う人々がおりました。そういう人々のことを念頭に置いて、筆者は「もし、罪を犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです」と書いているわけです。
それに対して筆者は、まことの光であるキリストを私たちが本当に知り、その愛を豊かに受けているなら[そのように私たちがキリストを知り、彼のうちにとどまっているなら]、「その人は本当に罪を犯さないようになるのですよ」と教えています。罪を犯していないと主張するだけではだめです。実際に罪を犯さない生活を築き上げていく必要があります。「木のよしあしはその実によって知られる」(マタイ12:33)と、イエス様も言われているではありませんか。
健全な生活をしていると言うなら、その健全な生活の実を示さなければなりません。その健全な生活の基準を、イエス様は《愛》に置かれました。何よりも大切なことは、愛の実を結ぶような生活をし、[ひたすら]愛を実践する生活を送ることなのです。
お父さんの真剣な取り組みがあって統一協会の迷いから脱出できた、飯星景子さんという方がいます。その景子さんの体験記の中に、「統一協会の言う神は、悲しみの神・嘆きの神で、愛の神ではない」と断じ、次のように記されています。「悲しみの神・嘆きの神と信じていた統一協会の神は、私の心のかさぶたが剥がれ落ちた瞬間から消えてなくなった。私にとって、神は決して人を不幸にしてまでお金を必要とする神様ではない。そのことが分かった。そして、統一協会においては、ヨハネの手紙に述べられているような神様の愛は、何も語られていない」と。
私たちは聖なる方[キリスト]の油[聖霊]を注がれています。それで私たちの心にはキリストが宿っておられます。そのキリストを知るとき、私たちの心には[キリストの]愛が満ちてまいります。その満ちる愛の実を結ぶことによって、私たちは本当にキリストを知っていることを証しできるのです。この愛が欠けるとき、私たちは[必然的に]世を憎み、世を裁くことになります。愛のない信仰は、いくら熱心そうに見えても「不信の塊(かたまり)」であり、この世を悪魔呼ばわりして断罪することを憚(はばか)りません。
神は、悪魔の支配下にある暗闇の世を愛して、その暗闇を照らすため「まことの光」であるキリストを世に遣わしてくださいました。「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを」(5節a)私たちは知っています。そのためキリストは、十字架でご自身のいのちまでささげてくださいました。8節には「神の子が現れたのは、悪魔の仕業(しわざ)を打ちこわすためです」とあります。「悪魔の仕業」が罪の源なのです。
悪魔の仕業を打ち壊すために現れたキリストには「何の罪もありません」(5節b)。この意味は、キリストが《全身これ愛と赦(ゆる)しに満ちたお方である》ということです。「何の罪もありません」と言われているのは、キリストは愛に満ちたお方である、という意味以外の何ものでもありません。
キリストの愛に満たされている限り、私たちも罪を犯しません。「神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」(9節)。「神の種」は、キリストご自身[もしくはキリストの愛]と考えてよいでしょう。キリストが私たちの内にとどまり、愛を豊かに注いでくださるので、私たちも愛のうちを歩むことができるのです。
「神の種」であるキリストが私たちの内にとどまってくださるので、私たちは「神のご性質にあずかる者」(Ⅱペテロ1:4)とされます。「神のご性質」は《愛》に他なりません。「神の種」が私たちのうちにとどまることによって、私たちはキリストの愛に取り囲まれ、キリストと「同じかたちに姿を変えられて」まいります(Ⅱコリント3:18)。日々の静聴の時、知性も感性も働かせて全身で御言葉を聴き[さらに味わい]、キリストと深く親しく交わるようにして、キリストの愛に満たされるなら、こんな私たちでも、キリストに似た《愛の人》に変えられていくのです。
知力と五感をフルに働かせて全身で御言葉を味わい、キリストによって示され[聖霊によって注がれ]る「神の愛」を受けましょう。そのための祈りです。三位一体の神の愛を豊かに受ける体験こそ、その人を「罪を犯さないように」変えてくれるのです。それは罪を犯す可能性がなくなる、ということではありません。罪を犯す可能性は残っており、私たちは罪を犯すことがあります。それにもかかわらず、キリストの愛が私たちを取り囲み、私たちを赦してくれる恵みを実感させられるのは、私たちが「神から生まれた者」であるからなのです。
「神から生まれた者」は、三位一体の神の愛を全身で受け止め、全身で感じています。それで罪を犯すことがないように歩める自由と恵みを享受しているのです。
(『西東京だより』第72号・2010年9月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。