これまでの連続説教や時折の説教の掲載に替えて、ある書を取り上げ、その《黙想・観想ノート》を連載したい。最初に取り上げるのはヨハネ第一書です。本書には、福音の真理が明確に語られています。福音の源である神ご自身が「愛」であること、「愛は神から出ている」ことが、単刀直入に述べられているのです(→4:7-8)。
神の本質は愛であり、愛は神から出ています。ですから《神を知り、神と交わること》は、神の愛を知り、その愛を味わい、その愛を呼吸して生きることに他なりません。それこそがキリスト者の生き方であり、その生き方には喜びと祈りと感謝が伴い、しかも尽きることがないのです(→Ⅰテサロニケ5:16-18)。それにしても、そんな生き方が本当にできるのでしょうか。
キリストによって現された神の愛に触れるとき、その愛を全身で感じるような体験をするとき、その人の生き方は根源的に変えられます。その人の内にキリストが生きてくださるようになるからです。ヨハネ第一書の著者(ヨハネ福音書の著者と同じ可能性もある)は、間違いなく、そのような生き方の体験者であり、証人でもありました。その著者は個人とは限りません。むしろ共同体の代表と考えられます。それで彼は自分のことを「私たち」と言っているのです。
著者にとって「いのちのことば」であるキリストは、「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」であります(1節)。2節には「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます」と書いてあります。この「いのち」とは、ただの「いのち」ではなく、まさに「永遠のいのち」であります。死を破り、死に勝利したいのちのことです。「永遠のいのち」であるキリストは、死に勝利された「復活のキリスト」に他なりません。
そのいのちのことばについて、著者は「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも(言い換えれば、本書を読む私たちにも)伝える」のだ、と言っています。それは「あなたがたも(すなわち、読者や聴衆である私たちも)[共同体である著者の]私たちと交わりを持つようになるため」であり、その「私たちとの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」と断言しているのです(3節)。著者がどうしても伝えたいと願っていることは何か、そのことを確認し、それをきちんと受け取らせていただきたい。
著者がそこに引き込みたい(いや共有してほしい)と願っている「私たちの交わり」は、冒頭に言われている「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、じっと見、手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」である復活のキリストと深く関係している、ということに改めて心を留めましょう。著者の背後にある共同体(教会)は、復活のキリストご自身を、その御声を耳で聞き、その御姿を目でじっと見るだけでなく、その御体(みからだ)に手でさわるような感覚で、体験的に知っていたのではないでしょうか。そして、そのようなキリストとの生きた交わりに、[現代の]読者や聴衆である私たちをも引き入れたいと強く願っているのです。
この著者の願いをしっかり受け止めるとき、今日の教会に属する私たちも、復活のキリストを「私たちが聞いたもの、じっと見、また手でさわる」ように、体験的に知ることができるのではないでしょうか。そして、現代の教会が証しする復活のキリストも、教会に属する私たちが《この耳で御声を聴き、この目で御姿を見、この手で御体にさわっている》お方である、と確信をもって言えるようになるのではないでしょうか。
私たちのために十字架において贖いの死を遂げたイエスは、死を滅ぼして復活させられた勝利者キリストとして、昇天して父なる神の右に着座するとともに、今ここで[聖霊によって]私たち一人一人と共におられます。この[霊的]現実こそ福音の真髄である、と言ってよいのです。復活のキリストが私たちと共におられるので、私たちは共におられるキリストの《御声を聴き、御姿を見、御体にさわる》という体験をすることができます。そして、このキリストとの親密な交わりを持つことも許されるのです。
このキリストとの親密な交わりが、ここでは「御父および御子イエス・キリストとの交わり」と言われているのは、御子なるイエス・キリストを受肉者として世に遣わし、この方を死者の中から復活させてくださったのが、御父なる神でいらっしゃるからです。御父と御子とは、父子関係における位格的区別はあっても、両者の関係は、本質的に一体であります。ですから、御子を知ることは必然的に御父を知ることになります。順序を正して言うなら、御父を知るためには御子を知らなければなりません。御子を知ることによる御子との親密な交わりが、同時に、御父を知ることによる御父との親密な交わりにもなるのです。
この[私たちの御父および御子との]親密な交わりは、御父と御子との親密な交わりに限りなく近いものである、と言えるのではないでしょうか。いや、限りなく近いものであるのです。そのことを実感させてくれるものが私たちキリスト者の《霊性》である、と言ってよいでしょう。そういうわけで私たちの《霊性》を高めるとともに深めることが、大切な課題となるのです。
この課題に答えるために、毎朝の「レビの時(アシュラム運動の用語で一般に言うデボーションに当たる)」に、聖書を開いて読む前に(あるいは聖書を読みながらでも)黙想し、観想することが肝要となります。黙想と観想は、どちらも沈黙の祈りです。違いと言えば、前者が知性の働きに重点を置き、後者が五感の働きに重点を置く点にあります。黙想における知性の働きは、神について、あるいは神の語り掛けについて思いめぐらし、それが何を意味するかを考えます。観想における五感(聴覚・視覚・臭覚・味覚・触覚)の働きは、私たちに神を感じ、神の属性(根源的には愛)を深く味わうようにさせてくれます。
実際には、黙想と観想は並行して行われるもので、両者を明確に区別することはできません。ただ言えることは、黙想だけでは、神ご自身(あるいは共におられる復活のキリスト)をリアルに実感することはできません。観想によって神(キリスト)の恵みを体験的に味わうことがないと、黙想の成果がキリスト者の血肉となって実を結ぶには至りません。そういうわけで観想を大切にし、[黙想を深めるためにも]観想を実践してほしいのです。
「交わり」と訳されるギリシア語はコイノーニアで、「同じものを分け合う」あるいは「同じものを共有する」ことを意味します。私たちが共に分け合い、共有しているものは《福音の恵み》です。それは十字架に死んで復活されたイエス・キリストに集約されています。「私たちの交わり」は、このキリストが聖霊によって私たちと共におられることを真実に体験しているのです。
この「私たちの交わり」には、罪の赦しと永遠のいのちが満ちあふれています。そこには尽きることのない喜びがあります。私たちの罪が無条件に赦されているからこそ、聖霊によって復活のキリストが私たちと共におられるのです。同時に、永遠のいのちが泉のように湧き上がり、「私たちの喜びが全きものとなる」のです(4節)。
(『西東京だより』第65号・2010年1月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。