この手紙が書かれたのは1世紀の終わり頃です。それから1910年余り経過していますが、この箇所の始めの方で「今は終わりの時です」と言われています。その「終わりの時」が1900年以上も続いて現在に至っているとは、驚くべきことではありませんか。今が終わりの時である証拠は、「今や反キリストが現れている」ということです(18節)。「反キリスト」とは、「イエスがキリストであることを否定する者」(22節)に他なりません。2千年を超えるキリスト教の歴史において、絶えず反キリストが現れてきました。今も現れています。するとキリスト教の歴史は、ずっと「終わりの時」が続いてきたのだ、ということになります。
イエス・キリストが来られたことで、[前回学んだように]すでに「闇が消え去り、まことの光が輝いている」(8節)のです。この光によって闇は消し去られ、今や新しい時代が始まっています。「だれでもキリストにあるなら、そこには新しい創造があります」(Ⅱコリント5:17、欄外別訳による)。この驚くべき現実を本当に信じ、黙想と観想によって全身で感得することができるのが、キリスト者の信仰の喜びではないでしょうか。こうした喜びを私が全身で味わえるようになったのは、50数年に及ぶ信仰生活の中でも、20年くらい前からのことなのです。
それにしても、終わりの時に生かされている私たちキリスト者と教会にとって、私たちを惑わそうとする反キリストの正体を見破り、その偽りの教えを退けていくことが大切な務めとなります。まことの光であるキリストを私(あるいは教会)の中に宿し、その光に私(あるいは教会)が照らされるとき、偽りのものを見破る眼を私(あるいは教会)は与えられているのです。偽物を見破るためには本物を知らなければなりません。本物をいつも見て、よく知っているなら、偽物はすぐに分かります。まことの光であるキリストをよく見て知っているなら、その光に照らして偽キリストや反キリストはすぐに分かるのです。
20節を見ると、私たちには「聖なる方からの注ぎの油」が与えられている、と書いてあります。「聖なる方」とは、イエス・キリストのことです。それを裏づけるように、27節に「キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています」と書いてあります。この「注ぎの油」は聖霊のことですから、私たちのうちには聖霊がとどまっておられます。この聖霊は、いつも私たちにキリストを示し、私たちをキリストにとどまらせてくれるお方なのです。それにしても、聖霊を強調する運動がいろいろあり、聖霊カリスマ運動と呼ばれるものもその一つですが、それには注意しなければならない危険な面があります。その危険とは、キリストを離れて、単なる熱狂主義やエクスタシー(恍惚状態)を求めるようになることです。
聖霊に満たされるとき、私たちは何よりもキリストをよく知るようになります。キリストの愛を深く味わい、そのまことの光に照らされて、私の内を覆う闇が消し去られていることを悟るのです。聖霊に満たされた人は、キリストの愛にとどまり、キリストが謙遜であられるように、ますます謙遜な人にされていきます。このような聖霊は、私たちをいよいよ「キリストのうちにとどまる」(27節)ようにしてくださいます。聖霊によって、私たちは御子をよく知るだけでなく、「御子および御父との交わり」(1:3)に導き入れられているのです。
このように聖霊に導かれて私たちが「御子および御父のうちにとどまる」(24節)ことが、祈りの真髄であり、また精華(せいか)であると言ってよいでしょう。「それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです」(25節)。この「永遠のいのち」とは、私たちの祈りの真髄また精華として与えられているものだと思います。願い事を申し上げ、必死の思いで訴え続けていくことも祈りの一つの姿でありますが、それが祈りの真髄ではありません。いよいよ深く、また親しく「御子および御父のうちにとどまる」ようになること、それこそが祈りの真髄であり、また精華であるのです。
「御子および御父のうちにとどまる」とき、私たちの心は喜びに満ち、感謝にあふれます。真髄と言うべき祈りは喜びと感謝に満ちあふれたものであり、私たちの心を感謝と喜びで満たしてくれるものこそ祈りであるのです。このような祈りについて私が深く教えられ、推奨したい本があります。それは奥村一郎(カトリックのカルメル会神父)著『祈り』(女子パウロ会、1974年)。私が祈りについて一番深く教えられ、心に強く印象づけられているのは、この新書版の本なのです。
「祈りとは魂の呼吸である」と言ったのは、初代教会最大の教父アウグスチヌスです。以来、この言葉を多くの人が引用し、よく読まれているハレスビーの同じ『祈り』(聖文舎、1954年)と題する本にも言及があります[本書は絶版で、現在入手できるのはノルウェー語原本からの新訳『祈りの世界』(教団出版局、1998年)]。確かに祈りは魂の呼吸でありますが、奥村神父は「祈りは愛の呼吸である」と言うのです。私はこの言葉に深く打たれました。「祈りは愛の呼吸であり、祈りと愛とには切っても切れない関係がある」――この言葉は奥村神父の体験からにじみ出てきたものでしょうが、本当に素晴らしい! と思います。愛が祈りの根源にあり、愛がなければ、私たちは祈ることもできないのです。
4章であらためて学びますが、神は愛であり、「愛は神から出ているのです」(4:7)。このように愛の本源である神様が私たちのために祈っていてくださいます。活けるイエス様が私たちに愛のまなざしを向けていてくださることが、よく分かります。それこそ私たちに対するイエス様の祈りではないでしょうか。イエス様に祈られていることを知ると、イエス様の愛が私たちの心に注がれるのを感じます。そのとき私たちの心から、喜びと感謝の祈りがこみ上げてくるのです。
聖霊の油を注がれてイエス様の愛をいっぱい受けるとき、私たちの内からも愛が湧き上がり、みんなを赦(ゆる)し愛する心が生まれます。この《みんなを赦し愛する心》から祈りがあふれてくるのではないでしょうか。ですから、祈りは《愛の呼吸》なのです。愛の呼吸の中で祈るとき、私たちは神様の御心にかなうことしか願い求めなくなります。
聖霊は、何が真理で何が偽りであるかを、私たちにはっきり教えてくださいます。それでキリストからの「注ぎの油」である聖霊を受けたキリスト者は、「[真理と偽りを区別するために]だれからも教えを受ける必要がありません」(27節)。20節にも、「あなたがた[キリスト者]には聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも[真理と偽りを区別することのできる]知識を持っています」と言われているとおりです。
それで私たちは、「聖なる方からの注ぎの油」である聖霊を呼吸するとき《愛の呼吸》をしながら生きていきたい、と切に願わされます。そのため、まず、心を落ち着けて呼吸をしましょう。深く息を吸い込むとき、吸う息と共に聖霊が私の内に注がれます。聖霊は「風」であり「息」であるからです。また吐く息と共に、私の内にある汚れた思いが消し去られるように出ていくのを感じます。こうして聖霊に満たされるとき、私[たち]のために死んで復活されたキリストの愛を[全身に染みるように]深く覚えさせられるのです。
(『西東京だより』第70号・2010年7月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。