17節冒頭にある「このことによって」は、16節後半に「神は愛です。愛の内にいる者は神の内におり、神もその人の内におられます」と言われていることを受けています。神は愛ですから、神が私たちと共におられるなら、私たちは神の愛の内にいることになります。神は遠く離れた所(天)におられますが、同時に私たちの内にもおられるのです。これが福音でなくて何が福音でしょう。イエス・キリストにあって、神は私たちと共におられる《インマヌエルの神》であられます。
このインマヌエルの恵みを受けると、私たちは「愛は私たちにおいても完全なものとなりました」と告白せずにはいられなくされます。神は愛を本質とするお方であり、その神が私たちの内に共におられるからです。神が私たちと共におられるので、私たちは神の愛に包まれ、神の愛を全身でひしひしと感じるようになります。そのようにして、私たちの内に神の愛が全うされていくのです。そのような恵みの現実を、[私たちは]どれだけ豊かに体験しているでしょうか。そのことが今、私たち一人一人に問われています。
神が自分の内におられる、神が自分と共におられるということを、あなたは本当に信じておられますか。神が共におられるので自分は神の愛に満たされ、愛が自分においても完全なものになっていることを、あなたは体験しておられますか。この恵みの現実を体験している人が、キリスト者であると思います。それでキリスト者は、いつも喜んでいることができるのです。この喜びは感謝となりますので、キリスト者には感謝も尽きることがありません。すべての事において、感謝することができるようになるのです。そのような喜びと感謝こそ、キリスト者にふさわしい祈りの最高の姿なのではありませんか。
祈りとは、神様にお願いすることだけではありません。願うことも祈りの要素でありますが、絶えずささげることのできる祈りは、神の愛に満たされていることの喜びと感謝なのです。「あなたは私に愛を豊かに注いでくださいました。神様、ありがとうございます」という、神への感謝にあふれた賛美こそ、祈りの最高の姿であると思います。私たちが絶えずささげることのできる祈りとは、このような《領収書の祈り》なのです。
神は、イエス・キリストにおいて私たちと共におり、その愛を惜しみなく私たちに注ごうとされています。「今日も、わたしはあなたと共にいたい」と、イエス様は私たち一人一人に語り掛けておられます。そのイエス様を喜んでお迎えするのが、イエス様の喜ばれる《幼子のような信仰》です。大人は、まだ迎えなくても大丈夫だ、自分には迎えるような資格はないなどと理屈をこねて、イエス様を迎えようとしません。しかし幼子は、素直に神様がくださるものを受けるのです。その幼子のように、私たちは日々、神様がくださる恵みであるイエス様をお迎えし、その愛に満たされる恵みを体験してまいりましょう。
かつて岐阜アシュラム事務局を担っておられた寺まりさんのささげた、典型的な領収書の祈りを紹介します。「愛するイエス様。真理の御言葉を与えてくださってありがとうございます。罪人の私を御言葉で救ってくださり、天のお父様の愛の御心を感じるようにしてくださってありがとうございます。イエス様の語られた御言葉は命です。どうか来る朝ごとに、私を真理の御言葉によって聖(きよ)め別(わか)ってください。愛する兄弟姉妹をありがとうございます。互いに愛し合い祈り合って、主にあって一つとされておりますことを感謝します」。これこそキリスト者にふさわしい祈りであると思います。
そのように神の愛が私たちの内に全うされてゆくとき、私たちは「さばきの日にも大胆さを持つことができる」ようになります。「大胆さ」と訳したギリシア語は、「確信」と訳すこともできます。神が私たちに注いでくださる愛は、揺るぎない確信である「大胆さ」を与え、私たちを「さばきの日にも」恐れを知らない者にしてくれるのです。
18節には「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」とあります。なぜ「大胆さを持つことができる」のか。愛には恐れがないからです。恐れは不安でもあります。愛が完全であるなら恐れや不安は全くなくなります。「なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです」とあるように、なぜ恐れるのかというと罰を受けるかもしれないという不安があるからです。しかし神の愛は、私たちを一切のさばきから解放してくれています。それは無条件・無制限の赦し、徹底した赦しであるのです。
そのことをイエス様は、「七度を七十倍するまで」赦すことである、と教えておられます(マタイ18:21以下)。赦すことは何度と数えることではなく、限りなく赦すことです。そのようにイエス様は、私たちの罪を限りなく赦してくださっています。一万タラントの負債免除が意味しているのは、そのことです。一デナリを一万円とすると一万タラントは6千億円になります。一万タラントの負債を免除されたことは、私たちの罪が限りなく赦されていることの比喩なのです。
一万タラントの負債を赦されたこと―そのことを教える十字架の贖(あがな)いの教理―が頭だけの理解であると、隣人の100デナリの負債を赦すことがなかなかできません。私が1万タラントの負債を赦された恵みを深く体験しているなら、隣人の100デナリの負債など[はした金同然で]自然に忘れてしまいます。ですから、イエス様の愛を知ることが、頭だけの理解に留まっていてはなりません。頭も心も含めた体全体で、イエス様の愛を深く感じていくようになりたいものです。
イエス様の限りない愛は、私たちを地獄からも救い出してくださっています。「地獄」が意味するのは、神との交わりを絶たれた場所のことです。イエス様の愛は地獄をも滅ぼすほど大きい、ということを知らなければなりません。イエス様の愛に包まれるなら、もはや地獄は消滅しているのです。
十字架に死んで葬られたイエス様は、それからどこへ行かれたのでしょう。使徒信条に「陰府(よみ)に下り」という意味深長な一句があります。イエス様は下って行かれた「陰府」と呼ばれる地獄を打ち破って復活されたに違いありません。復活の主イエスは、地獄をも滅ぼしてしまわれました。イエス様の愛は、それほど広く、長く、高く、深く、大きいのです(エペソ3:18~19参照)。
17節の終わりに、「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです」という、とても大事な(いや驚くべき!)言葉が見られます。キリスト者は「この世にあってキリストと同じような者である」と言われていますが、あなたは本当にそう信じておられますか。どんなに自力で頑張っても、キリストと同じような者にはなれません。しかし、私の内におられるキリストが私と一体となるなら、私はおのずからキリストと同じような者になれるのです。
「もやは私が生きているのではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白するキリスト者は、キリストと共に地獄にも打ち勝っているのですから、もはや「罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。このキリストの愛から私たちを引き離すものは何もないので、私たちは「この世にあってキリストと同じような者」である「圧倒的な勝利者」となれるのです(ローマ8:37~39参照)。
(『西東京だより』第79号・2011年4月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。