私たちは神の子どもと呼ばれるだけでなく、事実、今神の子どもなのです。その恵みは測り知れないほど大きいものですが、その第一は、小さい子がお父さんやお母さんに大胆に近づいていくように、私たちも神の子として大胆に神の御前に近づけることではないでしょうか。このように「大胆に神の御前に出る」ことができるのは(21節)、神の子とされた最大の恵みであり、また特権でもあると言ってよいでしょう。
恵みの第二は、求めるものは何でも神からいただけるという、愛と信頼に満ちた確信を[神に対して]持つことができる、ということです。それは正常な親子関係において、おねだりするものは必ず与えてもらえると、小さい子が両親に対して抱く愛と信頼に通じるものであると思います。時として、そのような親子関係が築けなくて不幸な事件が起こるのは、とても残念なことです。普通であれば、赤ちゃんや幼児は遠慮なく両親に求め、両親はいつでも与えてくれます。このようにして、小さな子どもは愛と信頼に満ちた確信を育まれてまいります。そのように、「求めるものは何でも神からいただくことができます」(22節)という確信を育まれることこそ、神の子どもとされた者が受ける第二の恵みであるのです。
神の子どもである私たちは、神様に愛されています。21節に「愛する者たち」とあるのは、正確に訳せば「愛されている者たち」です。もちろん、神に愛されているという意味であり、私たちキリスト者は「神に愛されている者たち」なのです。
神様は、本書で「神は愛です」と明言されているように(4:8、16)、愛を本質とするお方です。愛を本質とする神の真理に私たちは属しています。この「真理」とは、難しい理論ではなく、イエス・キリストにおいて現された神の愛に他なりません。それはイエス・キリストご自身である、と言ってもよいでしょう。イエス様は「わたしが真理なのです」(ヨハネ14:6)と言われます。イエス様がそう言われるのは、神の愛を体現しておられるからなのです。イエス様において現された神の愛こそ真理であり、その「真理」に私たちは属しているのです。
そのことを私たちが、頭だけで知っているのでも心だけで知っているのでもなく、頭も心も含めた全身で知っている――そういう現実こそ、神の子どもにふさわしいことなのです。赤ちゃんは両親の愛を全身で知っています。神の子どもとされた者は、「真理」である神の愛を全身で知っているのです。そういうわけで、私たちは「神の御前に心を安らかにされるのです」(19節後半)。続く20節前半に「私の心が責めるようなことがあっても」(私訳)と付言されています。自分の心が責めるようなことがあっても、神の御前に心を安らかにされるというのです。これこそ福音! ではありませんか。
自分の心を責める気持ちがあると、人を責めるようになります。誰かを責めるのは、その人の内に自分を責める思いがあるからです。神の愛を知らない人は、真面目であればあるほど自分を責める思いが強く働くようであり、いつも自責の念に駆られています。そのとりこにしてしまうように罪責感を私たちの心に植え付け、それを助長するような働きを、律法が演じる場合があります。
律法は本来、神の御心を示すものであって、そういう働きをするはずはありません。ただ、律法が悪魔の手玉に取られると、私たちの心に罪責感をあおるような働きをするのです。パウロは、それを「律法の呪い」と呼んでいます(ガラテヤ3:13)。律法の呪いから解放されたキリスト者が、現実の信仰生活において、再び律法の呪いのとりことなってしまう、というようなことが起こるのです。よくよく注意しなければなりません。
神様の愛に包まれていると、自分は駄目だという思いがあっても、私の心は神様の愛によって安らかにされています。福音は私たちを律法の支配から解放し、「私たちの心よりも[遥(はる)かに]大きく、そして何もかもご存じ」である(20節後半)神様の心の中に、私たちを包み込んでくれています。神様の心は私たちの心よりも遥かに大きく、広いのです。「何もかもご存じ」である神は、私たちの弱さを知り、豊かな赦(ゆる)しの愛で私たちを取り囲んでいてくださいます。
神様の愛は、私たちを限りなく赦してくださいます。赦すことにも限りがあると私たちは考えますが、主イエス様は「七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と、限りなく赦すことを教えておられます。赦すことに限度はありません。限りなく赦してくださるイエス様の愛の中にいるので、私たちの心がどんなに自分を責めることがあっても、私たちの心は安らかにされるのです。両親の豊かな愛に包まれている赤ちゃんは、失敗しても自分を責めたりはしません。失敗すればするほど親に甘えていくのが、素直な幼児の姿であると言ってよいでしょう。
幼児は、遠慮なく、それこそ大胆に、親におねだりします。それがかなえられることを確信しているからです。私たちも同じで、自分の罪の赦しを神様に願い求めるなら、願い求める先に神様は赦してくださっているのですから、その願いが必ずかなえられることを確信することができます。もっと多く[豊かに]赦され、心に安らぎを与えられることによって、私たちはもっと深く[豊かに]神様の愛を味わいます。そうすると私たちの内に、おのずから愛の行動が起こされるようになるのです。小さい子どもも同じで、親の愛を豊かに受け、愛を全身で味わい体験させられると、おのずから愛のある人へと成長してまいります。私たちが互いに愛し合うのも、私たちがいろいろなことを通して神の愛を体得させられているからなのです。
イエス・キリストの福音は、インマヌエルの恵みです。復活のイエス様は「すべての日々に、あなた方と共にいる」(マタイ28:20)と言われます。十字架で私たちのために罪の贖(あがな)いを成し遂げてくださったイエス様は、復活の主として、いつでも信じる私たちと共におられます。そういうわけで、私たちの罪はことごとく赦され、私たちは主が与えてくださる平安に満たされているのです。
ですから、もはや私たちが罪責感に悩まされることはありません。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)と、パウロは断言しています。それなのに、いつも「自分は駄目だ」と自分を責める思いに悩まされているキリスト者が少なからずいるのは、なぜでしょう。罪の赦しの福音が身に付いているなら、今や罪に定められることは決してないのですから、自分を責めることは何もありません。罪責感から完全に解放され、復活の主イエス様が共にいてくださる喜びにあふれて、「大胆に神の御前に出ることができる」のです(21節)。
大胆に神の御前に出て、神のことを想い、神と交わることができる――これこそ祈りの極意であり、真髄であります。この祈りにおいて「求めるものは何でも神からいただくことができる」と確信させられるのは、「私たちが神の命令を守り、神に喜ばれること[それは、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うこと]を行っているからです」(22、23節)。この祈りによって、私[たち]が神の内におり、神も私[たち]の内におられる恵みを体験させられるのです(24節)。
(『西東京だより』第74号・2010年11月より転載)
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村瀬俊夫(むらせ・としお)
1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。